「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容

2024年1月23日
全体に公開

「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄

会期:2023年12月2日(土)~2024年2月4日(日)

URL:https://shoto-museum.jp/exhibitions/202zenei/

渋谷区立松涛美術館:〒150-0046東京都渋谷区松濤2-14-14

前衛の終わり。その一歩先へ!美術評論家の瀧口修造たきぐちしゅうぞう(1903-79)、絵画と写真で活躍した阿部展也あべのぶや(1913-71)、そして写真家である大辻清司おおつじきよじ(1923-2001)と牛腸茂雄ごちょうしげお(1946-83)。この4人を結びつける、日本写真史における特異な系譜をご紹介します。
1930年代、海外のシュルレアリスムや抽象芸術の影響を受けて、日本各地に前衛写真が流行。東京では、瀧口や阿部を中心とする「前衛写真協会」が設立されます。技巧を凝らした新奇なイメージが珍重された前衛写真の風潮に満足しなかった瀧口は、「日常現実のふかい襞のかげに潜んでいる美」を見つめ、いたずらに技術を弄ぶべきではないと、熱狂に冷や水を浴びせかけます。しかし、太平洋戦争へと向かう時局において前衛写真が次第に弾圧の対象となっていくなか、この瀧口の指摘は一部をのぞいて十分に検討されることなく、運動は終局に向かいました。
戦後、個々人のなかに前衛写真の精神は継承され、特需景気、経済成長からその限界へとひた走る戦後の日本社会に反応し続けます。とりわけ、写真家としての出発点において瀧口と阿部に強く影響を受けた大辻と、「桑沢デザイン研究所」における大辻の教え子だった牛腸の二人は、時代に翻弄され移り変わる「日常現実」を批判的に見つめなおし、数々の名作を生み出しました。その写真には、反抗と闘争の60年代が過ぎ去った70年代、変容を遂げつつあった「前衛」の血脈が隠されています。4人の精神があぶりだす、「なんでもないもの」のとんでもなさ。どうぞ穴の開くほど、じっくりとご覧ください。

昨年から千葉市美術館(2023年4月8日〜2023年5月21日)、富山県美術館(2023年6月3日〜2023年7月17日)、新潟市美術館(2023年7月29日〜2023年9月24日)と巡回し、松涛美術館が最後の展示となります。

*撮影禁止のため概要のみ記載

第1章 1930-40年代 瀧口修造と阿部展也 前衛写真の台頭と衰退

3章構成になっており、1章ではウジェーヌ・アジェ(1900年前後)から始まって、阿部芳文(展也)と滝口修造が向き合った前衛写真や雑誌『フォトタイムス』インタビューが展示されていました。

アジェ「Eclipse, 1911(日蝕の間)」は様々な美術館で頻繁にとりあげられています

「Eclipse, 1911 ウジェーヌ・アジェ1911, printed 1956」Google Arts &Culture

アトリエが近所だったマンレイが『シュルレアリスム革命』7,8号(1926)で「写真からアウラを剥ぎ取った」と評価した翌27年に死去し、マンレイの助手ベレニス・アボットに写真原板とプリントが引き継がれニューヨーク近代美術館に収蔵されています。

ひとつ前の展示(杉本博司「本歌取り」)でも書いたとおり、写真誕生によって絵画の役割が変わりました。写真家へ転じた肖像画家も多く、ヨーロッパでは1800年代末にピクトリアリズム(絵画主義)が流行します。

写真誕生当時を振り返ると1835年にタルボットがネガ像の定着に成功し、後にカロタイプを発明したことでネガ像からポジ像を作る手法が広がりました。

ネガに直接傷をつけたりゴムで擦ることで絵画のような写真を目指した手法が日本にも輸入され、シュルレアリスムや抽象芸術の影響を受けながら1930~1940年代に新たな潮流が生まれます。戦前はコマーシャル写真がまだ存在せず売買する市場もなかったので、写真館や記録写真の仕事をしながら九州(ソシエテ・イルフ)や関西(浪華写真倶楽部・丹平写真倶楽部・芦屋カメラクラブ)で広がっていきました。

この1935年(昭和10年)前後は新興写真、昭和初期の芸術写真に次ぐブームが起きており瀧口修造も1932年(昭和7年)に就職したPCLで映画に関わりながら、そのブームの中にいました。

1937年6月13日には「海外超現実主義作品展」でマン・レイやアジェが大々的に紹介され、翌1938年に東京で永田一脩(本展で「Objet Natural A」・「風呂の中の二人の男」・「火の山」・「石膏像」が展示)や瀧口修造によって前衛写真協会が設立されますが、戦時下で規制を受け写真造形研究会への名称変更(1939年)や瀧口修造の逮捕(1941年)へとつながっていきます。

ヴァルター・ベンヤミンは当時の写真を三分類し、代表作である「複製技術時代の芸術」・「パサージュ論」発表前の1931年秋、雑誌『文学世界』の9月18日号・9月25日号・10月2日号に『写真小史』として発表しました。これによると絵画風の写真は「芸術っぽさの捏造」と評価されています。

1850年頃:初期写真

写真誕生から10年前後の絶頂期で、まだ商業化する前。当時のダゲレオタイプ(銀板写真)は一枚しか撮れず、被写体も肖像写真が主でブルジョワ階級中心であった。撮影自体もすぐに終わらず露光時間がかなり長かったという技術面側面からもアウラがある時代、ヒル・ユゴー(詩人のユゴーの息子)・キャメロンなど

1880年代~1900年頃:凋落期

タルボット方式(ネガ/ポジ)は何枚もコピー可能になり、被写体も様々な階級の人々がスタジオで撮影するようになった。アウラが失われるばかりか、絵画風の写真が流行り、捏造されていった

1930年頃:新しい写真

ブロースフェルト・アジェ・ザンダーらによって構成的な写真が誕生

写真家はどの顧客にとってもまず第一に、最新の流派に属する技術者であり、一方写真家にとってはどの顧客も、興隆しつつある階級の一員だった。この階級のもつアウラは、市民風の上着や蝶ネクタイの皺のなかにまで巣くっていた。というのも、あのアウラはたんに原始的なカメラの産物というわけではないのだから。むしろ写真の初期には、対象と技術が厳密に対応していたのであって、それに続く凋落期には、この二つが同じく厳密に、今度は離れ離れになっていゆくのである。すなわち、進歩した光学は間もなく、暗さを完璧に克服し、ものの姿を鏡のように記録する道具を手中に収めるに至った。しかし写真家たちのほうは一八九〇年以降の時期、むしろアウラを捏造することに自分たちの使命を見ていた。そもそも明るくなったレンズが暗さを追放したことで画面からアウラが追放され、また帝国主義的な市民階級がますます堕落していったことで、現実からアウラが追放されつつあった。写真家たちはこうしたアウラを、あらゆる修正の技法を使って、あるいはとくにいわゆるゴム印画法によって捏造することを、自分たちの使命とみなした。
ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』筑摩書房 1998 P,31-32

理論化においてはバウハウスの影響も見逃せません。モホイ=ナジ・ラースロー(1919年バウハウス招聘、1923年教授)の『写真・絵画・映画』がバウハウス叢書8巻として1925年に翻訳され、バウハウス機関紙第一号(1928年)で発表した写真の定義(写真は光による造形である)が瀧口や大辻へ影響を与えました。

第2章 1950-70年代 大辻清司 前衛写真の復活と転調

昨年生誕100周年を迎えた大辻作品と雑誌インタビューが展示されています。2008年にご遺族から武蔵野美術大学へ大辻清司作品が寄贈され、劣化したゼラチンシルバープリントをDNPメディア・アートと共同で修復することで「大辻清司フォトアーカイブ」が構築されました。

陳列棚シリーズなどは都内のギャラリーで購入するこもできます。Artsy

出所:Artsy

この第2章は本展で最も重要です。「前衛」と「なんでもないもの」という企画展タイトルは大辻の思想を反映しています。

なんでもないものがなんでもなく撮られて何かを訴えなければ不可(いけ)ない
「前衛写真を語る座談会」『写真手帖』1950年1月号

大辻はこれらの思想を基に「コンポラ写真」を提唱しました。

ジョージイーストマンハウス国際写真美術館の展示「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」1966~1968年開催のタイトルと展示された写真が由来となります。

標準から広角寄りのレンズで横位置にカメラを構えてファインダーの前にある現実空間を少し離れた距離から捉えることで被写体の周囲にある空間を広く取り込み、周囲の状況や環境とあわせてその対象を眺め、問題を総ぐるみとして冷静にとらえる態度
「シンポジウム/現代の写真 日常の風景」『カメラ毎日』1968年6月

この「なんでもない写真」は1975年に『アサヒカメラ』で連載した「大辻清司実験室」第5回目のタイトルと掲載された6枚の写真になります。

撮影者である自分の興味関心が作品に反映されてしまうので、モノ自体は撮れないという結論になります。モノと私の「関係」こそがコンポラ写真の重要な点と言えそうです。

第3章 1960-80年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ

最後に次世代の牛腸茂雄(ごちょうしげお)作品で締めくくられます。

「牛腸茂雄を見つめる目。」ほぼ日

東京国立近代美術館にも収蔵(Printed 2003)された『SELF AND OTHERS』のモノクロプリントや『日々』が並んでいました。

https://www.momat.go.jp/collection/ph1336-060

地元の新潟市美術館が収蔵した学生時代の課題やラムダプリントのカラー写真に加え、直筆ノートや映画も流れていました。

牛腸作品に関しては桑沢デザイン専門学校の同級生だった三浦氏が今も現像を行っており、また別の機会で取り上げたいと思います。残念なことに36歳で亡くなられており「牛腸茂雄を見つめる目。」(ほぼ日)や日曜美術館で詳しく紹介されています。

「彼は自分の人生の残り時間を常に意識して、先を急ぐように生きていた」。家族や友人、近所の子供など、見知らぬ人々のさりげないポートレートで知られる写真家・牛腸茂雄(ごちょう・しげお)。肉体的なハンディを抱えながら創作を続け、36歳でこの世を去った。死後40年、再評価の機運が高まる中、学生時代からの友人だった写真家・三浦和人は、この夏、牛腸のネガのプリントに挑んだ。浮かび上がる牛腸の「まなざし」とは。
「友よ 写真よ 写真家 牛腸茂雄との日々」2022年10月30日

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