「ビジネスパーソン」とは誰か

2023年5月22日
全体に公開

 “ビジネス”を“商い”と訳し直したところで、次に行きたいのはその派生語である“ビジネスパーソン”だ。何故って、この企画を考えるにあたって編集の方が挙げたカタカナ語の例の1つが“ビジネスパーソン”だったからだ。

 これに関しては、今までの日本語の歴史を踏まえるという連載の流れを鑑みて、俺が“商人”もしくは“あきんど”なんて訳語を使うのでは?と予想する読者もいるかもしれない。 だが俺のなかでは“商い”が“ビジネス”の訳語にハマった時点で、ある1つの言葉が既に思い浮かんでいた。

 それこそが“商い手”だ!

 ……もちろん読者の方はみな怪訝に思うだろう。“商い”はまだしもその“手”は一体どこから出てきたんだと。

 もちろんそれをミッチリと説明させていただきましょう!

 まず、俺にルーマニア語について語らせていただきたい。
 前にも話した通り、俺は東欧の小国ルーマニア、その公用語であるルーマニア語で小説や詩を書いている。ここにおいて俺は“scriitor”というルーマニア語でその肩書きを表現されている。これは小説や詩はもちろん、エッセイに報道記事にと、つまりは何らかの文章を書いている人を全部引っくるめて表現する単語だ。英語の“writer”とかなり重なるといってもいい。個々の役職を示す単語ももちろん存在するが、包括的な語として“scriitor”があるわけだ。

 だが日本語に訳すとなると骨が折れる。小説家も詩人もエッセイストも報道記者も全部含めた単語はなかなかないからね。ちょっと思いついたのは“文筆家”だが、格調高すぎてどこかシックリこない。

 そこで“scriitor”に戻ると、この言葉はそもそも“書く人”という意味を示している。これを意味する日本語は何だろうか。そこで俺が思いついたのが“書き手”っていう言葉だったんである。

 “手”をある種の“人”とみなす用法は“働き手”だとか“守り手”だとか、それこそこの“書き手”だったりと昔から普通に存在していたが、近年台頭を始めたのが“歌い手”のような気がしている。俺もYoutubeは好きだが主にゆっくり解説とゲーム実況ばっか観てるもんで、それほど親しんでるわけではないが、それでもYoutubeにいる限りは自然と目に入る、というか耳に入るんだ。

 というわけで勉強のために、ないこの『歌い手社長 フォロワー0人の会社員が3年後に武道館に立つ物語』って本を読んでみた。歌い手というのはいわゆる“歌ってみた動画”を出している存在なのはもちろんだが、インターネットで本名や顔を出さないのが基本と彼は冒頭で明記している。そしてライブもやるわけだが、ここでは顔出しをするんだと。だからファンはここで初めて歌い手の姿を目撃するんだそうだ。

 今までにない姿勢って感じで、俺としても“ああ、こういう風に新しい形の経験というやつを提供してるんだな”と感心した。本にはないこの歌い手になるまでの人生と、歌い手としての理念が綴られており、新時代の職種をテーマとした商学書として興味深い。そして匿名性と実存在の間を行き交うにあたって、職種名において“手”が際立つ形で配置されてるのには俺が思うよりも深い意義があるのではって思えた。

 俺としてもだ、昔から“歌手”って言葉はあったから“手”は使われていたのは当然分かっているが、その間に“い”っていうひらがなが入るだけで風通しがよくなったような感覚があるよな。軽やかに感じるよ。そして“歌”と“手”が切り離されることで、漢字として視覚的により際立つけども、そこで初めて“いや、何で手なんだろう?”と意識するようにもなったんだ。歌い手の作品、これから真面目に聞いてみようと思うよ。

 それにさ、歌手って実際歌う時に手を動かしまくってるよな。
 例えばマイクを掴んだ手が上へ下へ左へ右へ動きまくるのはもちろん、GLAYのTERUなんか腕をバアッと広げて、まるで翼を羽ばたかせるみたいなことするよな。あれの真似したくなっちゃうのも納得だ。

 みんなもYoutubeで歌手のPVを見れば、彼らがめっちゃ手を動かしてるのが分かる。歌ってるうちに気分が乗って、自然と手が動いちゃうのかもしれないな。

 そして俺自身の行動を顧みることになるんだ。 この前、著書に関するインタビューを受けたんだよ。なかなかにフカフカなソファーに座らせてもらい、インタビュアーの人も反応がいいからついつい喋りすぎちゃうような楽しい経験だった。

 それで最後に写真撮影をやったんだけども、そこでカメラマンの人と喋ってたんだ。彼はインタビュー中にも喋ってる最中の俺を撮影してたそうだが、この時の俺について「今まで撮った人のなかでも過去一くらいに手を動かしてて、撮影に手こずっちゃいましたよ」って言ってた。

 これに関して“少しくらい手を動かしてるな”としか思ってなかった俺は「そこまででした!?」って驚いちゃったよ。

 その時から自分の手の動きをより意識するようになったんだけど、確かに大分手を動かしてるんだよな。Zoom越しにインタビューや打ち合わせをする時は画面に自分の姿が映るわけだけど、話している言葉に連動して、まるでその意味を補うかのように手が動いてるんだよな。

 それから俺は何らかの考えを深めたい時にはノートやタブレットに色々文章を書くんだが、その動きを見ていると尋常じゃないくらい手が駆動しているのが分かる。指がうねうね動くわ、手首がガクガクしてるわ、自分の手自体が精密機械にでもなったかのように動いている。この文章もタブレットで書いているが、親指の動く早さはなかなかのもんだよ。

 だが他の人も俺と同じような動きをかなりやっていることにも気づいた。

 例えばTEDのスピーチ動画を観ていたらさ、喋っている時に手をお腹の辺りで軽く上下に動かすっていう動作を何度もやっている人を見掛けた。注目していると、語気を強めるって時にこれをやってるのが分かる。発音に勢いをつけるって感じだ。さらにこの動作によって喋りのテンポを刻んでいるっていうのも分かってくる。この人にとって手の動きは喋ることの根幹に関わってくるもののようにも思えた。

 この人や俺自身の手の動きを観察するなかで、俺はこう思い始める。

 人間ってのは考えようとすると手が勝手に動くのかもしれないと。

 商いにおいても、手を動かすことは重要だ。例えばプレゼンをする時にも、言葉や資料で説明するだけでなく、そこに身ぶり手振りを交えながら情報を相手に伝えるということが重要だと教えられた覚えがある。

 話術もそりゃ重要だが、手の動かし方が滑らかであったり補完的であったりすると、情報がより鮮明に伝わることになる。ここに加えて身ぶり手振りにはより人柄というものが出てくる。電話越しよりも直接会った方が親しみが増すみたいなのは、こういう動作にこそ人間性を感じ、親しみを抱くからなのではないか。

 特に店頭販売の場なんかはこういった身ぶり手振りの世界であって、売上上位の人は手を動かすのが上手いってのはある気がする。

 あと、むしろ手を動かさないと考えを明晰に深めることができないっていうのは自分の経験からして感じる。自分で手を動かしてノートやタブレットに文章を書かないと考えはちゃんと深まらないし、面接で手を膝に置いていなければならない状況では言葉が喉から外に出ていかない感覚がずっとあった。体を自由に動かせないと、そのまま体も緊張せざるを得ない。

 そういえばハリウッド映画で主人公が悪役に椅子に縛られるみたいな場面がよくあるよな。ああいう時に腕も後ろに縛られるけど、あれって身動きを取れなくするのと同時に、手を動かせなくして物事を冷静に考えられなくするって効果も狙ってるのでは?と思った。

 まあ、それはそれとして前の記事で“商”という漢字の成り立ちについてこんなことを書いていた。

 なんでも『角川新字源 改訂新版』によると“意符㕯(とつ)(=吶。ゆっくり話す)と、音符章(シヤウ)の省略形とから成る。外から内を推し量る意を表す”という感じらしいよ。この文章を読んでいると、商いっていうのは売る者と買う者とが互いに行動から心を見つめ合意を形成していく過程なんだっていう風景が見えてくるようだ。

 この風景において、最も際立った動きを見せるのは何より手だろう。
 手を握る、指を指す、頭を掻く、顔を覆う、商品を掴む、手のひらを広げる。
 こういった動作の裏側にはそれぞれの感情や思惑が宿り、それをいかに伺い読み取っていくかによって、より善い商取引を成立させていく。

 目は口ほどに物を言う、だがそれ以上に手は口ほどに物を言うでもあるんじゃあないか。

 商いにおけるこの手の重要性ゆえに“商い手”という言葉が個人的に迫るわけだ。 ということで次回はこれを探求するため、ある本を読んでいきたい。 こうご期待!  

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