糸井重里が語る、生きること、働くこと
2017/8/19
白いカーネーション
ものごころがつく前に母親が家を出たんです。当時の田舎だと父子家庭は珍しかった。
小学校で、母の日に「みんなお母さんにカーネーションを渡しましょう」と赤いカーネーションが配られるわけです。
母親がいない子どもたちには、白いカーネーションが配られる──。
ふすまの向こうの家族会議
ぼくが布団に入ったあと、隣の居間からなにやら話し声が聞こえるんですよ。
父親と再婚した母親とばあさんが、ぼくについて家族会議を開いている。そして母親が言うわけです。「あの子は、ことばにトゲがある」と。
それはもう、ぼくの人生を決定づけたと言ってもいいくらい、悲しかった──。
ひとりの時間
友だちと一緒にいるときの自分が「ほんとうのおれ」なのかというと、それはちょっと違うんです。
誰も見ていない場所でひとり考える自分が「おれ」なんですね。
だからぼくは、ひとりの時間を持たない人は、あまり信用できません──。
働きたくなかった
将来の夢もなにも、ぼくは働きたくなかったです。仕事とか会社というものが怖かった。
いつか自分も大人になって、毎日会社に出かけて働かなきゃいけないんだと思うと、ほんとうに悲しくてね。布団のなかでひとり泣いていましたよ。
やっぱりそれは、父親の姿を見ていたからでしょう──。
父の享年に追いつく
今年ぼくは、父親の享年(68歳)に追いついたんです。
会えるものなら会って、いろいろ話して、聞いてみたいですよ。「お父さん、たのしかった?」って。
ある日、布団の中で冷えきった足の先を父親の太腿のあいだに挟んでもらったんですね。
母親の温もりは知らないけれど、父親の温もりは忘れないですね──。
学生運動に身を投じて
ぼくが入った法政大学は、学生運動全体でいうと一種のゲバルト部隊です。
内側から見た学生運動は、いまで言うブラック企業と同じ構図ですよ。
「おおきな理想を達成するためには、多少の犠牲は厭わない」という発想が、組織全体を覆っている──。
コピーライターになれると決めた
会社勤めは考えられませんでした。
会社が怖かったし、そもそも大学を中退した身で、会社から受け入れてもらえるとも思えなかった。なので最初から、フリーで食っていく道を探しました。
なんの根拠もないまま「おれはコピーライターというものになれるのかもしれない」と思ったんです。
「なれると思った」じゃない。「なれると決めた」ですよ──。
自信のかたちが変化していく
コピーライターとしての自分をどう考えていたかは、複雑ですね。そうそう簡単に「おれは天才だ」と思えるものじゃない。
最初に感じたのは「どうやらおれは、ここにいてもいいんだな」でした。
それが少しずつ「これだったらおれにもできるな」に変わってくる。
やがていろんな広告を見たり、先輩たちの仕事を見たりしても「これ、おれにやらせてくれたらな」と思うようになる──。
矢沢永吉さんに教わったこと
「矢沢永吉の本、やってみない?」
自叙伝『成りあがり』のスタートです。
取材では、愚直なやり方で、子ども時代から順番に話を聞いていきました。「この矢沢永吉という人は、どんなふうにしてつくられていったのか」を心底知りたかったから。
ぼくが永ちゃんに教わったのは「時流に乗らないこと」の大切さです──。
セゾングループ・堤清二さんの激昂
「おいしい生活。」からもう35年も経つんですか。
堤清二さんとの印象的な思い出でいうと、没になったコピーです。
「寿退社」が半ば当たり前の時代に、西武流通グループではあたらしい人事システムを創設しました。
ぼくは、『人材、嫁ぐ。』というコピーを書きました。
堤さんは、ぼくのほうを見ることなく、幹部社員の人たちを見て静かに口を開きました。堤さんは怒っているときほど、ことばが丁寧になります──。
49歳、パソコンをはじめる
ぼくがずっと思ってきた「無名の人たちの力」や「弱きものこそ」のネットワークが、思いもしないかたちで実現されていました。
あわててパソコンを買いました。1997年の11月10日、49歳の誕生日のことです──。
インターネット以上にハマったのが「電子メール」だったんです。
ただ、タイピングには苦労したなあ。
「プロデューサー」のデュ(dhu)がどう打っていいのかわからなくてね。duと打ったら「づ」になるし、dyuと打ったら「ぢゅ」になる。だから「デ」を打ったあと──。
岩田聡さんとの出会い
岩田聡さんとはじめて会ったのは『MOTHER 2』(1994年)のとき。開発が頓挫しかかっていたとき、岩田さんが「このままではできないと思います」と断言するんです──。
「ほぼ日」の構想をいちばん最初に相談した相手も、岩田さんです。まだ任天堂に移る前、HAL研究所の社長だったころですね。
後に岩田さんの奥さんが「嫉妬しました」っていうくらいしょっちゅう会って、お互いに意見を求めては話し合って。
ただ仲がいいだけじゃなくって、「パンチ」を出し合える関係だったんです──。
課金制にせず広告も入れない理由
「どうして課金制にしなかったんですか?」と聞かれることがありますが、課金を考えたことは一度もありません。
ぼくがつくりたかったのは、遊び場。課金制の道を選んでしまうと、「契約」が発生しますよね。
「契約関係」からは、遊びが育たないんですよ──。
上場を考えたきっかけ
株式上場について考えはじめたのは、10年くらい前ですね。
いろんな人たちが「上場したらこんな嫌なことがある」とか「これだけ不自由になる」とか「株主総会なんて生きた心地がしないよ」とか、ありったけのデメリットを語ってくれました。
上場してない人たちも含めてね(笑)──。
新規事業のむずかしさ
新規事業って、そんなに簡単なことじゃないんです。
もし「ドコノコ」や「学校」の新規プロジェクトに、全精力を注いだら、ぜったいに成功させられる自信がありますよ。
でも、それはできないし、やっちゃいけないんです。なぜなら、破壊と創造は表裏一体だから。
じゃあ、どうすればいいかというと──。
(予告編構成:上田真緒、本編聞き手・構成:古賀史健、撮影:遠藤素子、バナーデザイン:今村 徹)
コンテンツなら、いくらでもある
糸井重里(ほぼ日 社長)
- 糸井重里が語る、生きること、働くこと
- 母親の温もりを知らない
- ことばとは、おそろしいもの
- いまになって考える、父親という肉親
- 刺激を求めながら、選べなかった「100万円」
- 「命」が軽くなると、「ことば」が重くなる
- コピーライターになれる、と決めた
- 就職後に待っていた理想と現実
- 自信はどのようにして築かれていくのか
- 矢沢永吉と『成りあがり』に学んだこと
- 『TOKIO』が開いてくれた80年代の扉
- ぼくにとっての「広告のクリエイティブ」
- セゾングループ・堤清二さんの激昂
- コピーライター糸井重里という「流行」
- はじめて出会った「なりたい人」としての吉本隆明さん
- ゲームであり純文学でもあった『MOTHER』
- 「無名の人たちの力」インターネットに見た可能性
- パンチを出し合える親友、岩田聡さん
- なぜ、ほぼ日は課金制にせず広告も入れないのか
- いい仕事をするために大切なこと
- ほぼ日のいちばんおおきな転機、東日本大震災
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- JASDAQ上場のほんとうの理由
- ぼくが引退したとき、ほぼ日は飛躍する