ディヴィッド・ホックニーとウエストミンスター寺院(前編)

2024年3月1日
全体に公開

 はじめまして、オーナーの加藤磨珠枝(かとう・ますえ)と申します。美術と旅が大好きで、東京藝大に進学後は、休学してバックパッカーで旅してみたり、ローマ大学大学院に留学してみたり、はっと気づいたら、大学生を終えるまでに13年間が過ぎていました。いわゆるコスパを何も考えていない人生ですが、今は大学で美術史を教えています。

 「現代アートで聖堂めぐり―21世紀の宗教美術―」と題したこのトピックでは、大学の講義から少し離れて、もっと自由に現代アートと宗教の関わりをお話したいという願いをかなえることにしました。その第1弾として、世界でもっとも人気のある現代アーティストのひとりデイヴィッド・ホックニーが、2018年にイギリスのエリザベス女王(Elizabeth II)の即位65周年を記念して、ロンドンのウエストミンスター寺院に完成した《女王の窓》のステンドグラスをとりあげます。彼が制作を依頼されたこの聖堂は、キリスト教世界においてどんな場所なのでしょうか、また、この制作にどんな意味を見出すことができるのでしょうか。

ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)とは

 イギリス王室と密接な関係を持つ、イギリス国教会の重要な僧院(修道院聖堂)です。約1千年にわたる伝統を有し、2011年にはウィリアム皇太子とケイト・ミドルトンさんの結婚式、2022年にはエリザベス女王の国葬、2023年には国王チャールズ3世の戴冠式もここで行われました。いわば、イギリスの政治・宗教をめぐる国家的な儀式の舞台です。加えて、シエイクスピアやアイザック・ニュートン、ダーウィンをはじめとする数々の著名人、王族、政治家ら3千人以上の埋葬場所としても注目を集め、世界遺産にも登録されています。

ロンドン、ウエストミンスター寺院ファサード外観 ©Alex Segre/ getty images 提供

 ロンドンの観光地として、日々多くの来場者を迎える現在の建物は、1245年にヘンリー3世がフランスの大聖堂を模して大改築したゴシック建築を核として、その後、改築や増築が加えられ現在の姿にいたっています。内部空間も、各時代のステンドグラス、壁画、彫刻、工芸品の数々で彩られています(13世紀以降のステンドグラスなど、古い時代の作品の一部は、2018年に新設された最上階ギャラリーに展示)。

 こんなイギリスを代表する大修道院聖堂に、デイヴィッド・ホックニーが制作したステンドグラスって、どんな存在感を示すのかしら?と、興味津々でロンドンまで見に行ってきました。

ホックニーってどんなア―ティスト?

 ステンドグラスについて語る前に、彼の経歴を簡単に紹介すると、1937年にイギリスのブラッドフォードで生まれ、今年3月の時点で86歳の現役です。ロンドンの王立美術学校(Royal Academy of Arts)在学中の20代から高い評価をえて、1964年にロサンゼルスに居を移した後は、アメリカ西海岸の陽光あふれるプールの情景を描いた絵画で一躍脚光を浴びました。

 ちなみに、その頃(1972年)に描かれた絵画作品《アーティストの肖像(2人の人物とプール)》は、2018年のニューヨークのオークションにて、9031万2500ドル(当時の為替で102億円ほど)で落札され、存命中の画家による落札価格として、当時の史上最高額を記録したほどです。https://www.afpbb.com/articles/-/3197902

ニューヨークのクリスティーズで開催された《アーティストの肖像(2人の人物とプール)》オークションの様子(2018年11月15日撮影)©Don EMMERT / AFP提供

 その後も、ホックニーは、ロンドンやイースト・ヨークシャーなどに居を移しながら、絵画はもとよりドローイング、版画、写真、舞台芸術、近年ではiPadのBrushアプリを用いるなど様々な手法で、革新的な作品を生み出しました。こうした活躍のなか、2016年にウエストミンスター寺院から注文を受けたのが、女王の即位65周年を記念するステンドグラス制作だったのです。それは2018年に完成し、同年9月に彼自身も出席した除幕式によってお披露目されました。見出しの写真はその時のもの。

 この制作と並行するかたちで、2017年に開催されたホックニーの生誕80年を記念した回顧展は、ロンドンのテート・ブリテン、パリのポンピドゥーセンター、ニューヨークのメトロポリタン美術館を巡回し、会場の来場者数記録を更新するほどの大人気ぶりでした。2023年には東京都現代美術館でも大規模な展覧会が開催されたため、そこで実際の作品をご覧になった方もいるでしょう。https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.html

ホックニーとエリザベス女王

 アーティストとしての名声が頂点をきわめる中で、ウエストミンスターのための制作が進められたわけですが、実はホックニーとイギリス王室との縁は長い時間をかけて培われてきたものでした。

 ホックニーは、1959-62年にロンドンの王立美術学校で学んだ後、1985年には王立アカデミーの准会員に選出されています。1990年には王室からナイトの称号授与の申し出がありましたが、それを辞退しました。しかし、1997年には女王陛下からコンパニオンズ・オブ・オナー勲章が授けられ、さらに2012年、女王の即位60周年を記念する「ダイヤモンド・ジュビリー」には同じくメリット勲章が授けられました。

2012年5月22日ロンドンのバッキンガム宮殿にて、エリザベス女王からメリット勲章を授けられるホックニー (Photo by Steve Parsons - WPA Pool/ getty images提供)

 この受勲と女王の即位60周年にさかのぼること1年前、2011年のBBCのインタビュー(https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-14822630)で、ホックニーは、女王をモデルとして絵画制作を依頼されたものの、「彼女がおさめている、イギリスを描くのにとても忙しい」との理由で、王室の依頼を断ったことを明らかにしています。たとえ最高のモデルであっても、彼は自分の知っている人物を描く方が好きだというのも理由のひとつでした。

 こうした経緯のなか、2012年6月3日、即位60周年記念行事としてテームズ川に670隻の船団を浮かべた祝祭パレードをテレビで見ていたホックニーに霊感が訪れます。彼はテレビ画面を通して、容赦なく降り続く雨のなかで深紅の王室専用船の甲板に立つエリザベス女王とフィリップ殿下の姿をiPadで描いたのです。《レガッタの終わり》と名付けられたこの作品は、女王の肖像画として、ロイヤルコレクションに加えられることになりました。

ホックニー《レガッタの終わり》2012、イギリス王室コレクション ©David Hockney  2012年6月9日付MailOnlineの記事 (By Nick Craven for the mail on Sanuday)より

 画面中央に小さく描かれた女王とフィリップ殿下は、鑑賞者に背をむけるようにたたずんでいます。女王は実際のところ、クリスタルを散りばめた白いコートと帽子を召していましたが、それをレモンイエロー色で表すなど、ホックニーらしい豊かな色彩感覚が画面全体にあふれ、深紅の船の周りを囲む護衛船団は、あたかも魚たちの群れのように回遊しています。これは、同年1月に、女王から勲章を授けられたホックニーのささやかな返礼だったのかもしれません。

 エリザベス女王とのこうした長い交流の延長線上に、2018年の即位65周年を記念するウエストミンスター寺院でのステンドグラス制作が実現しました。このようにたどってみると、彼の制作動機は宗教上の敬虔さというよりは、むしろイギリス王室との密接な結びつきの方が重要であったように思われます。これは、過去のさまざまな宗教美術の受注事例と照らし合わせても、特別なことではありません。芸術家自身の信仰と、作品制作は切り離して考えられるべき問題なのです。 

 「後編」ではウエストミンスター聖堂のステンドグラスをめぐって、イギリス国教会におけるセクシャリティの問題と、ホックニーの同性愛者としてのアイデンティティについて考えます。

(見出し画像:ウエストミンスター寺院《女王の窓》ステンドグラスの除幕式で作品の前に立つホックニー、2018年9月26日/Victoria Jones撮影 - WPA Pool/Getty Images 提供)

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