2024/5/11

香る墨、飾ってめでる墨。世界から愛される新しい墨のかたち

NewsPicks+d コンテンツプロデューサー
原材料や道具をつくる職人も激減し、需要も激減している墨。日本国内で使用されている固形墨の9割以上が奈良市で生産されている「奈良墨」です。

墨の魅力は「書く・見る・香るという三位一体」。自らを「伝える墨屋」と称する日本で一番小さな墨工房「錦光園」の7代目、長野睦さんは、その魅力をふまえた新商品の開発にも精力的に取り組んでいます。(第3回/全3回)
INDEX
  • 墨として求められることが理想
  • 猛反対する父を、1年かけて説得
  • 小学生とコラボした墨が完売

墨として求められることが理想

長野さんが開発した新商品の1つ目は、日本への墨の伝来年である西暦610年にちなみ、2019年6月10日に発売した「香り墨Asuka」。7世紀初頭に中国から伝わった日本最古の仮面舞踏劇で使用する「伎楽面」というお面をモチーフにしています。
長野「『香り墨Asuka』は、通常の墨の形状と比べてあまりにも特殊で、型製造には2カ月を要し、その後の製造技術でも何百回もの試作を重ねました」
発売後は、縁起のよい“香るインテリア”として人気を博し、現在は銀座・蔦屋書店や奈良・興福寺国宝館ショップなどでも取り扱っています(2024年3月現在)。
また、奈良・正倉院の宝物に装飾されている螺鈿の輝きを再現したパッケージは、2021年度の「日本パッケージデザイン大賞」で銀賞を受賞しました。
2つ目の「菓子木型墨」は、老舗の職人が一つひとつ手づくりした和菓子木型を用いた飾り墨です。
材料は異なれど、原材料を木型にはめ込み、形を整え、取り出したものを乾燥させるという点で、和菓子と墨の製造工程には共通点がありました。モチーフは「松」「鶴」「亀」。いずれも長寿や夫婦円満を表す縁起物です。
3つ目は、室町時代の「十二類歌合絵詞」をデザインのモデルとした「おはじき墨」
昔使用していた木型や廃業した墨屋の木型を使って、少しの分量の生墨を木型の表面に押し付けつくったもので、絵はがき、写経、冠婚葬祭の芳名書きなど、少量の墨が必要なときに便利な使い切りサイズです。
パッケージとなる袋の文様は「笹蔓手金更紗(ささづるできんさらさ)」と呼ばれる見事な更紗模様。奈良の大原和服専門学園の協力を得て、一つひとつを手縫いで仕上げました。
墨の未来を考えるとき、長野さんは、「技術転用で違うものをつくって求められるのではなく、墨で求められることが理想の姿」だと感じているそうです。上に挙げた新商品は、まさにその理想の姿を追い求めた結果なのでしょう。
長野「墨をすらずに手軽に使える墨汁は、確かに発明でした。利用者にとって便利なだけでなく、製法も機械で一気に大量生産できるし、材料も安価で済む。ただ、それが固形墨の存在を追いやってしまったという面は少なからずあります。
ボールペンのインクと同じカーボン製のインクが使われている筆ペンも大ヒット商品ですよね。その筆ペンで培った技術は、他のペンの製造に応用され、女性のリキッドアイライナーまで開発された。
本当に敬服すべき素晴らしい技術なのですが、僕はもう少し、墨が墨として求められる世界で戦いたいのです」

猛反対する父を、1年かけて説得

大学在学中からウイスキーが好きで、本場スコットランドで蒸留所を回ったりしていた長野さんは、卒業後、奈良を離れて上京し、英国風パブチェーンの「HUB」に就職しました。
HUB勤務時代の長野さん(写真提供:錦光園)
長野「とにかくいい会社でした。新しい業態の立ち上げを任されたり、ポジションもきちんと上がっていって。家のことがなかったら間違いなく定年までいたでしょう。でも、やっぱりいつかは家に戻るんだろうなとずっと思っていたんです」
そうして10年が過ぎたころ、父親に「家業を継ごうと思う」と告げると、「なぜわざわざ先行きのわからない業界に戻ってくるのか」「食べていけないから絶対に帰ってくるな」と猛反対されたそうです。
長野「うちは日本でいちばん小さな墨工房で、他社の墨屋さんや小売店のOEMをしてきたんです。でもだんだんと仕事がなくなり、父は廃業の準備を進めていた。墨屋の命とも言える木型もだいぶ処分していて……。これはまずいと焦りました」
長野さんは1年かけて父親を説得し、覚悟をもって「錦光園」の7代目となりました。2015年のことです。人からは後を継いだ劇的な理由を求められますが、そのたびに「家業というのはそういうもの。特別な理由はない」と答えています。
とはいえ、実際に墨の世界に飛び込んでみたら、想像以上に危機的な状況でした。前述のとおり、墨の生産量が激減し、職人や関係者の廃業も多く、下請けの仕事が中心だった錦光園も例外ではなかったのです。
「小さく残っているシェアを奪い合っても未来はない」。そう感じた長野さんは、「つくる」ことから「伝える」ことへと舵を切りました。
長野「奈良に帰って思ったのは、新しいことに対して積極的には動かないところだということ。裏を返すと、この地域で誰も手をつけていないことができるということでもあります。
僕が『伝える墨屋』として新しいことに取り組むのは、この業界で一人勝ちしたいからではない。衰退の一途をたどる奈良墨の産地を何とかしたい、その一心なんです」
また、日本に1人しかいない専門の墨型彫刻師の中村雅峯(がほう)さんに弟子入りもしました。
墨づくりに欠かせない専用の木型を製作する、日本でただ1人の墨型彫刻師・中村雅峯さん(写真提供:錦光園)
長野「いままでは、各墨屋さんの社員さんを中心に『技術を教えてあげてほしい』と中村さんの所に社員を派遣し、なんとかその技を学んで自社内で完結できる体制をとらざるを得ないというのが実情でした。
僕は弟子入りさせてもらった中村さんから教わった技術で食べていくつもりはなかった。そうではなく、中村さんを含む希少な職人さんたちの足跡を残したい。そして後継者を見つける手がかりを探し出したい。
その方たちにもしものことがあれば、技術が途切れる可能性もあるので、そのための橋渡しになっておきたいという気持ちでした」
長野さんの啓蒙活動・情報発信の活動が実を結び、中村さんへ弟子入りを希望される方が現れました。中村さんの後継者候補のご縁をつないだわけですが、一方、父親からは「ほとんど何も教わっていない」と長野さんは苦笑いします。
長野「仕事をちゃんと教えへんのですよ。見て覚えろみたいな、よくある感じ。ほんまに漫画の世界ですよね。
特に最初の頃はあまりにも教えてもらえなかったので、YouTubeを見まくりました。取材や見学で工房を訪ねたどなたかの動画とか、他の墨屋さんの職人さんがアップしている墨づくりの動画とかです。
書籍に関しては冊数がしれているから、やはり動画を見ていろんなところをすり合わせしていった感じですね」
継いだことに対して「ありがとう」と感謝の言葉を述べるでもない父。でも、その本音は言わずもがな長野さんに届いているのでしょう。

小学生とコラボした墨が完売

錦光園は自社ブランドがなく、大手の墨屋から小売店までのOEMだけを生業としてきました。
長野さんが継いだ当時はそのOEMすら実質ゼロになったのですが、その後の情報発信が功を奏し、少しずつ増えてきたそうです。頼まれたなかにはフィギュアや、クッキーの型でつくった墨の依頼がありました。
写真提供:錦光園
現在は店舗での直売とオンライン販売が9割を占めているので、未来の販路開拓も今後の課題です。
なかでも、墨の魅力を伝えるのに子どもほど大きな可能性を秘めた相手はいません。そのため、長野さんは学校への出張授業で全国を奔走しています。
写真提供:錦光園
長野「年齢のターゲットはわざと絞っていません。『日本人の記憶が残っているうちに』というテーマでいえば、上は60代以上の高齢者までが対象となりますから、あえて言うなら小学生から高齢者までということになります。
学校での出張授業も、僕のほうからこういう内容でやりますというのは基本的になくて、先方のやりたい要望をかなえるようにしています。本当にいろんなパターンがありますよ。
奈良の伝統産業を講義形式でやってほしい、奈良墨をつくるところを見せてほしい、実際に墨づくりをしたいから材料を送ってほしい、オンライン越しで墨づくりを一から教えてほしい。
自分たちで材料を集める段階からやりますという学校もあったし、総合学習か社会の時間で奈良の伝統産業について発表したいから僕にインタビューしたいという依頼もたくさんきました」
そんななか、実際に学校とのコラボレーションで生まれた製品があります。創立50周年を迎えた奈良市立東登美ヶ丘小学校の先生が「奈良の伝統工芸の50年後を考える」というテーマで授業を行いたいと、錦光園にやってきたのです。
写真提供:錦光園
長野さんは小学校に出張し、墨と奈良の関係や歴史、材料の授業を行い、児童全員ににぎり墨をつくってもらいました。
その後、児童は「自分たちに何ができるか」を話し合い、チームに分かれて提案内容をまとめ、プレゼン資料を作成。約30チームのプレゼンの中から長野さんが選んだ提案は4つで、そのうちの1つが、ラメの入った「銀河」という新商品の開発でした。
長野「新商品を考えるとき、自分だとどうしても外観や形から入ってしまいます。でも、この児童たちの考えた墨は、墨をすった際の液の中に星が見え、それが銀河のようだとか宇宙を表すとかいう壮大なイメージから発想しているんです。
アーティスト顔負けの着眼点というか、目のつけどころに仰天しました」
いざつくりだすと、ラメが入ると非常に混ぜにくいことがわかりました。他の墨にラメが侵入することも度々でした。
無事に完成し、2023年9月に発売されるや、「これが意外と売れたんですよ」と長野さんは相好を崩します。毎年の人気商品になりそうな勢いです。
長野「僕は、奈良墨の案内役になりたい。それが自らの使命かなと思っています」
香る墨。飾ってめでる墨──。
さまざまな墨の可能性を、長野さんは今日も探しています。