2021/1/26

【西 和彦】「人脈と情報」の2つを持てば大きな仕事ができる

PIVOT エグゼクティブ・エディター
若い読者は知らないかもしれない。あのマイクロソフトがベンチャー企業だった1970年代後半、創業者のビル・ゲイツとポール・アレンの傍らに、ボードメンバーとして一人の日本人がいたことを。その日本人こそ当時まだ20代だった西和彦氏だ。

しかし、西氏は経営方針の相違からビル・ゲイツと決別し帰国。アスキーを上場させ、出版、ソフトウェア、半導体、通信事業を拡大するが、バブル崩壊とともに経営が悪化し、社長の座を追われることになる。

波乱万丈な「半生」とその「反省」を語り尽くす。(全7回)

米国本社の売り上げの4割を稼ぐ

マイクロソフトBASICの東アジアにおける販売独占権を手にした僕は、さまざまなメーカーと手を組んで、いろいろなパソコンを生み出していきました。
僕はそのころアスキー出版の副社長になっていて、それと同時にマイクロソフトBASICを販売するアスキー・マイクロソフトという会社の社長でもありましたが、同時に米国のマイクロソフト本社にもアスキーからの出向という形で籍を置いていました。
米国マイクロソフトの当時の新社屋前で。
米国のマイクロソフトでは、最初は平社員の立場だったのですが、僕が日本の国内メーカーでマイクロソフトBASICを搭載したパソコンを次々に生み出し、マイクロソフトの売り上げの4割を稼ぐようになると、どんどん米国本社での地位を上げてもらって、ついに1981年には3人目のボードメンバーとなります。
当時のボードメンバーはビル・ゲイツとポール・アレン、そして僕の3人。僕とビルはまだ25歳でした。
左から、ポール・アレン氏、ビル・ゲイツ氏。一番右が西氏。
なぜこんな若造が次々に大きい仕事ができたのか。