2021/1/25

【西 和彦】ビル・ゲイツに電話「理想のパソコンをつくりたい」

PIVOT エグゼクティブ・エディター
若い読者は知らないかもしれない。あのマイクロソフトがベンチャー企業だった1970年代後半、創業者のビル・ゲイツとポール・アレンの傍らに、ボードメンバーとして一人の日本人がいたことを。その日本人こそ当時まだ20代だった西和彦氏だ。

しかし、西氏は経営方針の相違からビル・ゲイツと決別し帰国。アスキーを上場させ、出版、ソフトウェア、半導体、通信事業を拡大するが、バブル崩壊とともに経営が悪化し、社長の座を追われることになる。

波乱万丈な「半生」とその「反省」を語り尽くす。(全7回)

機械好きな分解魔

僕は1956年、神戸生まれです。
両親は僕の祖母が創設した須磨学園という学校を経営していたので非常に忙しく、それに僕は中学生くらいまでは非常に「いい子」でした。
1960年、須磨学園建設予定地で家族と。西氏は前列中央。
幼いころから機械が大好きで、どういう仕組みで動いているのかを知りたくて、家にある家電や機械はすぐに分解してしまう分解魔でした。
当時150万円くらいしたシャープの電子レンジを分解したときはさすがに大目玉を食ったです。
僕がのちに「コンピュータをつくりたい」と思うようになるのは、このころの経験が土台になっています。