藤原和博の「100万人に1人」になれる働き方

2018/8/18
「スーツを着て名刺を持って仕事をしてもらいます」というのにもぐっときました。
まさにビジネスのまね事をして稼ぎたかった僕にとって打ってつけのバイト。リクルート(当時は日本リクルートセンター)という会社名に聞き覚えはありませんでしたが、すぐに飛びつきました。
説明会は大盛況。応募してきた学生が200~300人はいたかもしれません。採用は2~3人というからおよそ100倍の競争率です。
10月に内定して見せられた前年度の決算報告書には、創業以来初の減収減益決算であることが記されていました。だからその時点でリクルートの事業内容について正確に把握していたわけではない。
いずれ情報産業の時代になるみたいなことを読み切ったわけでもない。
ではどうしてリクルートに入ったのか。
僕は中学生のときから25年近く、父と満足に口を利きませんでした。
それは中学2年のときのある事件がきっかけです。
東京大学に合格している人間の半分はそう。とにかく運がいい。
運のいい人間を選ぶこと。それが、リクルートの採用方針の1つです。それを本気でやらないほうがおかしい。運のいい人とだけ組むと、失敗することはまずありません。
リクルートでは、社長の考え方や会社の制度自体を一新させた実績がないと、「伝説の営業マン」として認められなかった。
単に数字を追いかけるのではなく、それをみんなで競い合っていたのです。
コミュニケーションは、自分の頭の中にあることを相手に正確に伝えることだと思っている人が多いですが、それは違います。
マネジメントは簡単ではない。一つアドバイスするとしたら、自分の弱みを握らせることも大事だということです。
マネジメントがうまい人はそこが巧みです。
創業者の江副浩正さんとはどんな経営者だったのか。
一言で表すのは難しいのですが、一つ言えるのは「採用狂」だということです。
リクルートに入社してからずっと、早朝から夜中まで働くスーパーサラリーマンをやっていました。もっと偉くなりたい、お金を稼ぎたい、そう思って働いていました。
でもあるとき、いきなり出世レースから降りざるを得なくなった。極度のストレスからメニエル病にかかったからです。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
リクルートが長年掲げてきたスローガン、哲学です。
リクルートへのバッシングは日に日に強まり、名刺を営業先で堂々と出せなくなりました。
「藤原です。お客様のコスト削減をお手伝いする通信事業を手掛けています」と自己紹介をしてから、付け足すように「リクルートです」と言っていました。
英文の履歴書を作らなければならなくなり、専門家と打ち合わせをしました。そのとき僕が記した経歴に関して、まさかの質問攻めにあったのです。
「このハウジング事業部の立ち上げに関わったというのは、具体的にどういうことをされたのですか。セールスですか、リサーチですか、それともこの雑誌の編集ですか」
「……に関わった」「……に参加した」「……を推進した」という曖昧な表現を一切認めてはくれず、自分のキャリアが身ぐるみはがされていく気分でした。
僕はバブル崩壊の後遺症に苦しむ日本を抜け出し、まずロンドンに向かいました。なぜヨーロッパだったのか。それには明確な理由がありました。
これから日本社会がどう動くのか。成長社会の後に訪れる成熟社会とは、どんな社会をいうのか。どんな社会システムが人々の生活を支えているのか。そうしたことを成熟社会の先輩格の国で体感したかった。
その中で自分が40代以降に取り組むテーマを探したかったのです。
企業では、課長、部長と出世するほど現場から離れ、自分のしたい仕事ができなくなるという構造があります。偉くなればなるほどそうなるのです。
なぜなら、自分の時間を以下の3つの業務に占領されるからです。
①接待 接待や部下との同行営業(社内接待も含む)
②査定 部下の査定や人事の問題(部下との飲み会も含む)
③会議 会議とその根回し(関係部署との社内調整も含む)
僕はこれらの頭文字をとって「SSK」と呼んでいます。
誰でも1万時間を投じれば、「100人に1人」の存在にまではなれるのです。
僕は「営業とプレゼン」「マネジメント」「教育」の3分野で「100人に1人」の存在になれたので、結果としてこの3つをかけ合わせて「100万人に1人」の希少性をゲットすることができました──。
(予告編構成:上田真緒、本編構成:荻島央江、撮影:遠藤素子、デザイン:今村 徹)