永遠のガキ大将、リヴァンプ澤田貴司の光と影

2015/3/28

柳井さんの一言

柳井さんに「澤田、次はお前が社長をやれ」と言われて、一度はそのつもりで承諾しました。そのころに東京初出店の原宿出店プロジェクトが動き始めました。
原宿の駅を降りて明治神宮前の交差点のほうを見ると、長蛇の列ができている。角のロッテリアに並んでいる人たちかと思ったら、よく見るとその行列はユニクロに続いていた。
「やった!」と思ったけれど、柳井さんがまず言った言葉が、「澤田、やったな」でも「ご苦労さん」でもなかった──。

僕がユニクロの社長を断ったワケ

フリースの大ブームが去ると、その反動でユニクロは急激に売上を落としていきます。
柳井さんから正式に次期社長になれと言われたのもそのころですが、僕はそれを断ってしまいました。「社長を受けない」と言った以上、もうポジションがない──。

高校時代の大きな挫折

「高校に行ったら甲子園めざしてがんばろう」と思っていましたが、半年で退部してしまいました。先生に「ついていけない」と言うのはダサいと思って、「受験が大事なので」と言い訳をして。
これは僕にとって大きな出来事でした。悶々とした感じが3年生の前半まで続きます。3年生の夏に、野球部の甲子園出場が決定し、複雑な気持ちでした。高校時代は僕にとって最悪の時代。なんでも人のせいにしていた嫌な時代です──。

ユーミンとの付き合い

ユーミンは僕の4、5歳上で、当時は20代後半くらい。遊びに行けばユーミンが手料理を作ってくれるし、同じように遊びに来ているきれいな女優さんやモデルさんとも会える。毎晩、松任谷家に通いました。
ある日、「澤田君がデートするとしたら、どういうところが好き?」と聞かれて、僕は「それなら苗場スキー場がいいよ」と言った。「夏はどこがいいかな?」と聞かれて、今度は「逗子マリーナがいい」と言った──。

“裏口入社”で伊藤忠商社へ

僕は大学の成績がものすごく悪かった。アメフトの練習に明け暮れていたので、半端じゃなく悪い。普通なら絶対に商社に入れないのは自分でもわかっています。
それでもあきらめきれなくて、過去に後輩を何人も伊藤忠商事に入れたことのある、力のある先輩にお願いし倒して、なんとか入れてもらうことができました。はっきり言って裏口入社です──。

クソじじいにはめられて100億吹っ飛ぶ

商社における花形の仕事は営業に出て商談を決めてくることですが、僕は船やトラックを手配したり、荷物に保険をかけたりという事務処理ばかりしていました。
ついに7年目、「澤田も商売をやってみろ」と先輩に言われて、100億円くらいの商売を任されます。
ところが半年で、アメリカとヨーロッパのメーカーから「取引をやめる」と言われてしまった。その先輩はうすうすこうなることを予期していたのでしょう。
「このクソじじい、はめやがった」と思ったけれど、もうどうしようもない──。

「今までの自分はダセえ」伊藤忠を辞める

僕に限らず商社には、靴をはいたまま足を机に乗せて、電話口で「それ乗った!」とか「売った!」とか言って、電話一本で何十億円と動かしている人がいっぱいいます。
ところがヨーカ堂さんには、そんな人はひとりもいない。経営のトップ自らが現場に出て行って、お客様のためにどうすべきかを語り尽くす、実行する、行動する。
「商社より、こっちのほうが素敵だな」「今までの自分はダセえ」と思い始めました──。

玉塚とふたりでリヴァンプを創業

ユニクロを辞めた玉塚とふたりで、企業を支援する会社「リヴァンプ」を始めます。ロッテリアの再建やクリスピー・クリーム・ドーナツの新規事業など、流通や外食産業を中心に実績を上げることができています。
しかし、覚えているのは再生に成功した会社よりも、再生できずに破産させてしまった会社のほうです。
自分が主役になって、誰がやってもできそうもないことを社員に押し付けていた。そしてその案件は失敗に終わりました──。

胃ガンになって

僕は昔から胃の検査をするたびに、「ガンになりそうな胃だ」と言われていました。ずっと「胃ガンになるぞ、なるぞ」と言われていたけれど、ならない。
オオカミ少年みたいだなと思っていたら、あるとき、本当に胃ガンだと言われました──。
石川県の田舎で培った「お山の大将」のDNA
(予告編構成:上田真緒、本編聞き手・佐々木紀彦、構成:長山清子、撮影:風間仁一郎)