2022/12/26

【対談】「弱さ」を抱えてどう生きる?

『シン・ニホン』など数々の書籍を世に送り出してきたNewsPicks パブリッシングの井上慎平編集長は、2021年に「双極性障害」を発症し10ヶ月間休職していました。
現在は社内のD&I推進の活動に当事者として取り組んでいます。

今回は井上さんのトピックス「弱さ考」の開設を記念して、同じくトピックス「朝ごはん同盟」を運営するNewsPicks編集部記者の岡ゆづはさんと対談を行いました。
それぞれ編集者、記者として様々なコンテンツを発信して来た2人が、その活躍の裏で考えてきた「経済の目的」や「交換可能な存在」と言われることへの不安と葛藤を明かしました。
井上慎平
NewsPicksパブリッシング編集長。
レーベルコンセプト「経済と文化の両利き」へ。経済だけではつまらない。文化だけでは形にならない。
2021年に双極性障害を発症、今も共存中。復職後、トピックス『弱さ考』を開始し思考を綴るほか、ユーザベース全体のD&Iにも関わる。強さより弱さ、答えよりも問いの人。
岡ゆづは
東京大学卒業後、NewsPicks編集部にて勤務。 担当特集に「日本電産 賭けに出る」「秘密企業モデルナ」「SNSを科学する」「エムスリーの正体」「インスタ2.0」「DeNA赤字の真相」など。
INDEX
  • 経済の「最終目的」とは何か
  • 私、何のために仕事をしているんだっけ
  • 私って「交換可能」なの?
  • 感情のコントロール
  • 割り切りと引き裂かれ

経済の「最終目的」とは何か

 たった一つの正解を提示するのではなく、新しい「問い」を投げかけることが出来たら…。井上さんが書いた『「強さの」時代に、「弱さ」の話を。』を読んでいて、そんな思いを感じ取りました。
井上さんの中で、今一番ホットな問いは何ですか?
井上 「経済の最終的な“目的”とは何なのか?」ですね。そもそも、“経済”とは何か。僕は「一人ひとりの暮らしの集積」だと思っています。入社前、外から見ていてNewsPicksはこの会社こそ「新しい経済をつくるんだろうな」という期待感を打ち出していて、僕もその必要性を強く感じていました。しかし、その「新しい経済」がただ単に「生産性の向上」だとしたらつまらない。中から新たな暮らし像、社会像をつくっていきたい、と思い入社しました。
大前提として、僕は経済はとても素晴らしいものだと思っています。この記事が読者のもとに届いているのも、世界中で乳幼児死亡率が大きく下がっているのも経済のおかげです。ただ、何事もいい面と悪い面は生じて当然なので、改善すべき部分は代案を考えていきたい。
「経済の目的」は一般的には「生産性の向上」が自明であるかのように言われていますが、僕はそう思わないんですよね…。そんな僕にヒントをくれたのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーでした。彼は、合理性を「実質合理性」(何らかの「価値基準」に向かう行動を「合理」とする)と「形式合理性」(目的に対して計画どおり進むことを「合理」とする)の2つに分け、近代社会は形式合理性が貫徹しすぎているのではないか?という問いを投げました。僕なりに理解すれば、そこには「価値基準」が欠けているのではないかと。
例えばですが、「失業率が少ない状態」が最重要の「価値基準」だと考えるなら、何が合理かは変わるわけですよね。ただ、現実的にはコストパフォーマンスの最大化・スピードの最速化のみが自明の目的とされ、「形式合理性」のみが社会に浸透している。ウェーバーの問いかけによって、僕は違う道もあるのだと気付きました。
経済のKGI(重要目標達成指標)は1つではない。時代の変化とともに変わるものでもあると思うので、今一度考え直すべき問いだと思っています。

私、何のために仕事をしているんだっけ

 「コスパを最大化することこそが正義」という価値観の中で生きていると、停滞が怖くなります。正直、私も怖いです。自分だけ、成長できていないんじゃないか。前に進めていないんじゃないかと焦ってしまって。時々、自分は何のために仕事をするんだろうと、我に返ります。私が作るコンテンツは、本当に誰かの役に立っているのだろうかと。
この悩み、実は数年前からずっと抱えているんです。同じことで悩む自分に気づいて、成長出来ていないのだと苦しむ。ビジネスでは成長することが善とされますが、停滞すること、下がることは悪いことなのでしょうか。
井上 最近、「ポスト資本主義」がよく語られますよね。中でも問題視されるのは「環境」と「格差」です。でも、僕は、岡さんが感じた「焦り」、つまり個人の価値観がそう気付かないうちに「資本主義化」してしまっている、そこも一つの問題だよなと思っています。岡さんが好きなコンテンツを作り、誰かが喜んでいると実感できている。それだけでよかったのに、そこに「もっと役に立つやり方があるんじゃないか」という問いを、自分で挿し込んでしまっている。
なぜ、成長が善とされるのか。物理学者の長沼伸一郎さんの著書に『現代経済学の直観的方法』(講談社)があります。この本、すごい本なのですが、僕にとっては特に第一章「資本主義はなぜ止まれないのか」が白眉でした。「資本主義とは何か」ではなく、「なぜ止まれないのか」から始めるという。その長沼さんの説明を僕なりの解釈で伝えると、止まれない理由は「負債と競争」です。
何か事業をするために銀行からお金を借りると、利息をつけて返さなければなりません。借金をせずに事業を興すのが理想ですが、競合との競争があるため、スピード感をもって成長しシェアを奪わないと、手元資金だけでは競争に負けてしまう。この負債と競争が組み合わさると、必然的に成長が目標となります。基本的にはこの論理の中で、企業は成長を求められます。
でも、別に個人が成長しなきゃいけないかというと、そうではないんですよね。「数年前と同じであることに悩む」って岡さんは言いますけど…僕、最近、二拠点生活を始めた関係でよく農作業の風景を見かけるんです。農作業は種をまいて、水をやり、十分に育ったら収穫するという、同じことの繰り返しです。その繰り返しの中では「もっと役に立つ方法があるのでは?」という疑念はおそらく生じていないように見えます。そして、それでいいんです。
でも東京は人材の流動性が高く、イノベーションの街であり、そして交換可能性の街でもあります。たくさんの人材が流動性高く動いていれば「君の代わりはいるよ」というプレッシャーを感じてしまうのも無理ないことですし、だからこそ自分も成長しなければというプレッシャーを感じるのでしょう。その状況で、「停滞してもいいんだ」と開き直り、成長せずにいられるほど、ヒトは強くありません。

私って「交換可能」なの?

 交換可能性、か…。ここ、もう少し掘り下げてもいいですか。私は、「交換可能な存在」だと言われることが、とても怖いです。井上さんは、そういう不安を抱くことはありますか。いつか自分の「上位互換」が出てきて、とって代わられるのではないか、という不安が。
井上 僕も交換されるのは怖いし、これからも怖いと思い続けると思います。そもそも人って交換不可能だと頭ではわかっていても、やっぱり怖いんですよね。
僕たちは、ふだんの言葉遣いの中につい「機械のメタファー」を忍び込ませてしまいます。「キャパシティ」や「思考のOS」や「自分のアップデート」などの言葉を語れば語るほど、人は、無意識のうちに自分をパーツの集合体かのように感じてしまう。岡さんという存在があたかも、「アポ取り力」「取材力」「リード文を書く力」など、さまざまなパーツという集合体であるかのように認識してしまう。自分をパーツの集合体だとみなすと、それぞれのパーツにはもっと良い「上位互換」の人が見つかります。怖さはここから生まれるんじゃないでしょうか。
ただ、当たり前ですが、人はパーツに分解できない。人はレゴのようにパーツを組み合わせてできるほど単純なものではないからです。性格ひとつとっても、人は驚くほど多面的です。それに、昨日と今日で、見た目は同じでも中身は少し違います。時間軸や環境によって変わる「自分」という存在の複雑さに思い至れたら、少しは怖さが少なくなるかなと。
僕も、今後編集長というポジションが交換されることは大いにあると思います。ただ、それは僕という存在そのものが上位互換されたわけではない。
成長への不安の背景には能力主義があると思うのですが、まず、50メートルの走力など具体的なものはおいておくとして、抽象的な能力は、絶対に測れません。絶対的に測れない能力は絶えず問い直され、絶えず更新されていく。だから、書店にはいつの時代も「○○力」という名をつけた書籍が溢れるわけですね(笑)。
それを見て僕たちは、自分には「○○力」や「○○力」が欠けているのではないか、と急き立てられるわけですが、測れない能力は問い直されるという構造をちゃんと理解していれば、怖さを感じることはないはずなんです。
 そうか。私はきっと、自分を能力やスキルの集合体として捉えているから、「交換されること」が怖いんですね。頭ではすごく理解できる。でも私はきっと、その不安を完全に消し去ることはできない。これって、どうしたらいいのでしょう。
井上 やめられないですよね。僕も双極性障害の症状で、何も原因がないのに、なぜか結果としての不安だけが生まれることがあるんです。原因がないと自覚できているから、もう、流されるしかない。岡さんも、不安の原因やそれを消す方法を探すことを手放して、ときには流されてみてもいいんじゃないでしょうか。その中で日々を過ごすことはきっと負けじゃないと思うな。

感情のコントロール

 不安を消そうとするからこそ、苦しくなるというのはその通りかもしれません。それに私は、「一生ハッピーなままでいられる薬があるけど、飲む?」と言われたら、断ってしまうと思う。常にミラクルハッピーであり続けるより、少し陰があったり、暗さがあったりしてこそ、人は魅力的だと思うので。
井上 生身の感情の「置き所」って難しいですよね。ポジティブな感情は社会から要請され、有用なものとして居場所を与えられますが、もうちょっと暗い感情、あの人と働きたくないなとか、笑いたくないところで笑ってしまった自分への悔しさとふがいなさとか、有用でない感情は求められませんし、仕事場に持ち込むこと自体タブーとされている気がします。でも、その暗さこそが、自分が自分たるゆえんだったりするんですけどね。
岡さんは、仕事と自分の感情に、折り合い、ついてますか。
 私は、心が高鳴ったときとそうでないときで、アウトプットに明確に差が出るタイプです。だからこそ、特にここ2,3年は「これは自分が愛を持って作りました」と胸を張って言えるものしか出さないようにしよう、と心がけています。
井上 感情が出てしまいやすいから、愛情を持てる素材選びをするという。人に対して感じることはありますか?
 人の機嫌の良し悪しには、敏感な方だと思います。でも、それはあくまで私が感じただけであって、それが本当とは限らないですよね。「言わなくても分かっている」というのは、私の傲慢かもしれない。その裏返しで、「言わなくても分かってほしい」「なぜ機嫌が悪いのか、悟ってほしい」というのは、人間関係を悪化させる元だと学びました(笑)。
どんなに仲が良いつもりでも、言葉にしなきゃ伝わらない。だからこそ、今は「嫌だな」「もやもやするな」と感じたら、できるだけ早く相手に伝えるようにしています。
井上 感受性が高い岡さんのような人だと、他人の感情に振り回されることはないですか。たとえば、「あの人大丈夫かな、でもここでケアすることより優先しなければいけない仕事があるし…」とか、あるいは「相手の辛さを自分の辛さのように感じてしまう」などのように、相手の感情に対してセンシティブになりすぎることありませんか。
 相手の感情に対してセンシティブになるというのは、そうかもしれません。例えば、相手が「今日は機嫌が悪そうだな」と感じると、私もその波長を強く感じ取ってしまう。でも、そういう時にどうしたらいいのか、自分の中で答えは出ていません。
井上 では、仮に「それを感じなくてよくなる、副作用もとくにない薬」があるとしたら飲みます?
 多分、飲まない。相手の状態を敏感に感じ取るのは、役立つときもあると思うんです。例えば、友達と電話している時に、相手は辛いとは決して言わないけれど、「ああ、今ちょっとしんどいのかなあ。なにかつっかえているのかなあ」と感じるときがある。これは、私にとって必要な感覚です。
自分は、晴れの日の友達ではなく、雨の日の友達なんだろうと思っています。楽しくにぎやかにお祝いしたいときに盛り上げられるタイプではないから、しんどいときに、だまってそばにいる。私はこの助け方しか知らないので、人のピンチに気づける感度が減ると、困ってしまいます。

割り切りと引き裂かれ

 …なんて偉そうに言ってしまったのですが、私は友達が多いタイプではありません。そこが大きなコンプレックスでもあります。
たくさん友達を作れることは、すごく素敵な能力ですよね。人との繋がりって、人が幸せに生きていくうえでめちゃめちゃ大切です。頭では分かっているけれど、私は自分からその繋がりを築くのが下手でして。ここは要改善ポイントです。
井上 たしかに孤独はきついけれど、「友人が多くない」と感じている人が頑張って克服する過程のほうが、孤独よりよほど辛い気もしてしまいます。人生観にもよりますが、結局は誰しも孤独ですしね。
 そう言ってもらうと、少し心が楽になります。「ハッピーであること」「友人が多いこと」「優しいこと」など、世間的に良しとされていることに異議を唱えるのは難しいですよね。
私は、「常にハッピーであれ」とプレッシャーをかけられると、居心地が悪く感じてしまう方です。でも、そう考える自分はどこか欠けているのではないか、間違っているのではないかと思ってしまい、声を上げづらい。ただ、いったん声をあげてみると、実は同じように感じている人がいた、というケースも時々あります。
井上 常識は、疑い出すとおもしろいですよね。たとえば能力主義という仕組みだって僕は疑っていますが、かといって捨て去るべきだとは思いません。ただ、資本主義の例も同じく、気付かないうちに価値観として内面化してしまうことはあるので、こうして言葉にして、あたかも帽子のように一度カパッと外してみる。そうすると、「これは自分そのものじゃないんだな」と理解できます。そして、理解した上でまたかぶる。そうするしかないんじゃないでしょうか。
どんな物事でも割り切ったら楽になります。岡さんの「友人が多くありません」という話について、人間は孤独なものだ、それでいいんだ、とスパッと割り切ったら非常に楽なわけです。でも、僕自身もとても寂しがり屋で、かつ友人も多くない。日々寂しさを感じる。それでも生きていく。僕は「割り切りと引き裂かれ」と表現しますが、割り切りの側に流れることなく、「引き裂かれ」を自覚しながら生きていくことを、自分の矜恃とすることに決めました。
今日は結局人間観の話でしたね。社会的生物である人間は社会からの要請を無視できない。でも、そこからどうしてもはみ出してしまうものがある。そしてそこにこそ人間らしさ、その人らしさが宿る。どこまで言っても消えない不安、さみしさなどの「置き所」のない感情を抱え、生きていく。それしかできないし、積極的にそれを肯定しちゃいけない理由は、どこにもないんだと思います。
お二人の連載記事はNewsPicksトピックスで連載中。ぜひ読んでみてください。