2020/12/10

【安田雅彦】年収の「見える化」は転職の常識をどう変えるか

NewsPicks Brand Design editor
業務内容、待遇、勤務地、福利厚生……。就職・転職時に考慮するポイントは数多あるが、また一つ興味深い指標が市場に生まれた。
1000万件に上る国内最大級の社員クチコミサービスを運営するOpenWork(旧Vorkers)が、これまで集めてきた膨大な年収データをアップデート。「年齢別年収」「企業別推定年収」としてコンテンツ化し公開したのだ。
いわば「年収の見える化」だが、これが就職・転職市場にどのようなパラダイムチェンジを起こすのか。変革のなかで、よりよい転職をするためのポイントとは。転職・採用人事に詳しいラッシュジャパンの人事責任者 安田雅彦氏と考える。

「本当の年収」はどこにも公開されていなかった

 今年8月、米国証券取引委員会は米国の上場企業に対して「人的資本の情報開示」を義務づけると発表した。
 財務情報や非財務情報によって見えるのが過去の選択の結果なら、人的資本の情報は未来の経営指標を占うものだ。米国での動きを受け、今後は日本でも人的資本領域の情報開示や強化に無関心ではいられなくなるだろう。
 これに拍車をかけるのが、OpenWorkによる「年収の見える化」だ。たしかに以前から、有価証券報告書で初任給や平均年収は公開されており、それらをもとに給与ランキングや年齢別の年収を示すメディアもあった。しかし、特に年収の変化カーブには、実態との乖離がある。
 というのも、これまで表に出ていたものは、厚生労働省が賃金構造基本統計調査で発表している業界平均賃金カーブに個々の企業の平均年収と平均年齢を当てはめて算出しただけのものであり、本来は企業ごとに異なる賃金カーブの特性が全く考慮されていないからだ。
OpenWorkがアップデートした年収コンテンツの画面の例。平均年収や職種別年収、年齢別の推定年収が「見える化」した。
 「OpenWorkの『年収の見える化』は、給与情報の精度を向上させるだけでなく、25歳、30歳、35歳など年齢別や職種別の切り口から給与を見比べることを可能にしている。
 就職・転職先を探している人にとっては、企業情報がより立体的になるという意味で非常に役立つツールです」
 こう語るのは安田雅彦氏だ。現在はラッシュジャパンで人事責任者を勤める「人事のプロ」であると同時に、外資系企業を渡り歩いてきた「転職のプロ」でもある。
 OpenWorkの「年収の見える化」機能を使っていくつかの業界を俯瞰してもらった。最初に安田氏注目したのは金融業界だ。
 「大手銀行を年齢層別の給与で比較してみると、他行より早く給与が上がるのがどこかわかるし、早く上がっても、頭打ちになっている銀行があるのも見えてきます。
 大手自動車メーカーの比較も面白いですね。年齢が上がるほど給与がグッと上がっているメーカーがありますが、これにはリストラの影響もあるでしょう。
 一方で、給与の伸びや最終的な給与額がほかより低くとも、雇用形態がより安定しているのでは、と推測できる企業もあります」(安田氏)
 働くうえで重要なのは、この先どういうキャリアライフを送りたいのかという自身の成功イメージと、企業が求める人材像が一致することだ。
 たとえば安田氏が以前勤めていた外科医療機器メーカーでは、医師への営業力が利益に直結するため、営業職の場合は給与におけるインセンティブの比率がかなり高かったという。
 安田氏の在籍時、同期であっても、2年目にして年収に200万円近くもの開きが出るケースもあったそうだ。
 そのかわり、パフォーマンスについては厳しくマネジメントされる。手を尽くしても予算未達が数年間続けば「ミスマッチ」と判断されるのだ。
ある会社の年齢別推定年収。年齢によっては1000万円近い開きがある。
 もちろん、従業員の満足度を左右しているのは給与だけでない。
 「たとえばラッシュでは、給与の満足度と併せて、やりがいやエンゲージメントの向上を目指しています。企業文化・価値観の醸成を図り、働きやすいような労働環境の整備も行っています」(安田氏)
 実際に、ラッシュジャパンはOpenWorkのが2019年に発表された「働きやすい外資系企業ランキング」で12位にランクインしている。社員によるクチコミの結果だということを踏まえれば、かなり実態に近い評価だと言えるだろう。
 社風やビジョンの実際がどうなのか、企業からの発信ではなく、クチコミから垣間見ることができるOpenWorkだが、精度の高い給与に関する情報が加わることで、市場の評価だけ、あるいは給与だけで飛びついてミスマッチを起こす危険性は下がるはずだ。

「うわべだけ」を取り繕う企業は淘汰される時代

 OpenWorkによる「年収の見える化」が影響を与えるのは、雇用される側ばかりではない。
 「年収のストラクチャを市場に明らかにするということは、『うちの会社はこういう会社です』というメッセージを軒先に掲げるようなもの。
 ですから今後は、企業が求職者に対して、『こんな狙いがあって、こういう給与体系になっています』『だから3年後にはこうなってきます』と語れるかどうかが問われます」(安田氏)
 他社の年収がクリアになるということは、市場における自社の給料水準も明らかになるということだ。
 「余計なことをしてくれた」と感じる企業もあるかもしれないが、年収に限らず、さまざまな情報がオープンになっていく流れは変えられない。ならば、自社がいる位置が戦略上適切なのか、適切でないとすれば、どういう手を打つのかを考える好機と捉えるべきだ。
 「企業は給与だけで評価されるのではありません。『あらゆる軸で高評価が得られるようにしろ』なんて言う経営陣もいますが、それは無理な話です(苦笑)。組織としてのプライオリティをどこに置くのか、経営と人事が狙いを定め、共有しておく必要があるでしょう」(安田氏)
 他社より給与が低いなら、給与を上げるのか、それとも給与以外のバリューがあると訴えるのか。そこで適切な施策を打つことが採用ブランディングにもつながる。
 ただし、すべてがオープンになりつつある今、市場での評価を小手先で操作することはできない。採用候補者を獲得するために綺麗事を並べても、候補者にも社員にも、それが嘘なら見抜かれてしまう。
 「これからは、これまで別々だった外部(候補者)用と内部(社員)用のコミュニケーションの垣根を取り払い、両者に同じことを言える企業が選ばれるようになります。既存の社員たちを大事にすることが、いい候補者を呼び呼び込むための素地になる。
 これまでもずっと言われていたことですが、今後はますますその傾向が強まるでしょう」(安田氏)
 変わるべきは企業だけではない。安田氏は日本社会全体も、給与の弾力性を上げる方向へ舵を切るべきだと指摘する。
 「ジョブ型、メンバーシップ型の二元論で語るつもりはありませんが、単純に年功序列で賃金が上がっていくって、やっぱり説明がつかないんですよ。それに、人口減による労働力不足という社会課題もあります。
 それぞれが持っている力で、適正な対価をもらって働くということが、状況をよりマシにするのではないでしょうか。
 加齢に応じて職務能力が損なわれる場合、たとえば肉体的なパフォーマンスが落ち、成績に影響するならば、それに見合った給与でも働き続けられるようにするのが、従業員にとっても、企業にとってもいいはずです。
 ただし、そのためのインフラ整備は欠かせません。ローンで家を買うにしても、基本的には徐々に賃金が上昇し、退職金で払い終えるというように、現状は年功序列や終身雇用といった制度に即した設計ですから」(安田氏)

常に自身の市場価値に敏感であれ

 これまでも転職を繰り返してきた安田氏だが、現在も転職エージェントと月1回ペースで面談を続けているという。その理由は2つある。
 「自社でのリクルーティングを通じて、市場の動きは把握しているつもりですが、より積極的に情報収集したいというのがひとつ。マーケットの動きを肌で感じていれば、今の処遇で良いのかがわかり、気づかないうちに社員が転職してしまう事態を防げます。
 もうひとつは、ひとりのビジネスパーソンとして常に市場価値を気にかけておきたいから。当然、お金のためだけに仕事をしているわけではありませんが、僕は年収を下げる転職はしないと決めていました」(安田氏)
「『今は年収を下げてでもこの企業に転職すべきだと思う』と言う人がいますが、何をもってそう判断するかだと思います」と安田氏。
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 安田氏の持論は「給料が高いのには理由がある」。評価の一尺度である年収を常に上げていくということは、市場価値を積み上げていくということだ。
 起業などを考えた際、今の自分に足りない経験を補強するために「年収を下げる転職」をするケースはあるだろうが、それ以外のケースでは市場価値を積み上げることにはならない。
 では、「市場価値」とは具体的に何なのか。自分のキャリアの展望にどういう意味を与えるのか。安田氏はそれらについて考えることの重要性を指摘する。
 「転職とは、今の仕事を自分のアセットとして次に持っていくことだと思うんです。だから、今のアセットにどれくらいの価値があるかを知っておく必要があります。もしHR領域における自分の得意分野のバリューがだだ下がりなら、僕は大幅に軌道修正しないといけません」(安田氏)
 今後、給与の弾力性が高まることを考えれば、「この会社が好きだから定年まで勤める」という人であっても自身の市場価値を把握しておくべきだろう。無自覚でいると、思わぬ落とし穴が待っているかもしれない。
 「OpenWorkのデータを見れば、自分の年収と自社や業界のデータを比較することで、自身が企業のなかでバリューを生み出せているかどうかがわかります。ですから、エージェントなどと併用するといいですね。
 オファーに対して、『今はその時期じゃない』と話も聞かない人がいますが、『転職する・しない』とか『定年までこの会社で働く・働かない』というのを決めてかかるのはおかしいですよ。
 オファーを受けたら話を聞き、キャリアへの野心が動いたら、転職する。それまでは市場価値に注目しながら、今の会社で一生懸命働く。シンプルにそれがいいじゃないでしょうか」(安田氏)
 自分の市場価値を把握しておくために、安田氏がもうひとつ勧めることがある。定期的に職務経歴書を書くことだ。これまでの仕事を振り返り、自身のスキルを棚卸しすることで、今後仕事を続けるうえで足りないものも見えてくる。
 「実は僕は会社を辞めたくなるたびに職務経歴書を書き直しています。『もう嫌だ!』というとき、キャリアを見つめ直すと、なんとなく冷静になってくる。写経と同じですね。ラッシュに移ってからも、実は4回くらいアップデートしています」
 その作業を通じて「自分だったら採用するか」「継続して雇用するか」と自身を客観視することもできる。きつい仕事でも、やり遂げて市場価値が上がるのであれば「まだ頑張ってみよう」と思えるだろう。
 最後に、ありったけの武器を揃えたうえで、さらに年収を上げるための方策はあるのか聞いてみた。
 「自分の職務へのコミットメント以外にないですね。自身の価値を正確に把握している人が、『入社してすぐ、こういうタスクがこなせる。そして必ず着地させる』と言えば、相手を交渉のテーブルに着かせることができるでしょう」(安田氏)
 未来を見据えながら、現在の仕事に集中するのは「当たり前」のことだろう。その「当たり前」を建前ではなく、本音で実行できているか。情報のオープン化により、今まで以上にビジネスパーソンの姿勢が問われることになりそうだ。