2020/11/19

【西和彦】かつてビル・ゲイツと組んだ、僕の「反省記」

NewsPicks編集部
マイクロソフト創業間もない1978年。「理想のコンピュータを作りたい」とビル・ゲイツの元を訪れ、意気投合してビジネスパートナーとなった男が、西和彦だ。 
マイクロソフトと、NEC(日本電気)や日立、沖電気、京セラなど日本の名だたるメーカーの橋渡し役となり、黎明期にパソコンを世に送り出してきた。アスキーの創業者として史上最年少で上場を果たした伝説の起業家でもある。
それから約40年。日本のパソコン産業や半導体産業は、すっかり勢いを失ってしまった。日本のハイテク産業は、どこで見誤ったのか。
パソコン黎明期の歴史を形作ってきた西氏の体験をひもときながら、日本テクノロジー産業のこれまでとこれからを語ってもらった。

ビル・ゲイツに「直電」

僕は大学時代、早稲田大学の地下にあった理工学図書館で、よく雑誌を読んでいました。その中でも、アメリカのコンピュータ専門誌「エレクトロニクス」がお気に入りでした。
ある日、その雑誌の小さな記事に目が止まったんです。1977年のことでした。
西和彦(にし・かずひこ)
1956年生まれ、神戸市出身。早稲田大学理工学部中退。在学中の1978年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合し、草創期のマイクロソフトに参画。現在は、須磨学園学園長、東京大学IoTメディアラボラトリーディレクターなどを務める。
マイクロソフトという会社が、BASICインタープリター(マイクロコンピュータを動かすためのプログラム)を作っている──。
僕はその記事を読んですぐに、創業者のビル・ゲイツを捜して電話をかけました。「このプログラムを使えば、自分が考えたコンピュータを作れる」と思ったからです。
当時のコンピュータは1台1000万円する巨大な機械で、動かすための手順も非常にややこしかった。
もしも、個人が買えるようなサイズや価格で、プログラムを実行できれば、すぐに動いてくれる。そんなコンピュータを、作りたいと思っていたのです。
当時、NECが「TK-80」というキットを売り始めていました。これはマイコンのシステム開発ができる教育用キットで、価格も10万円ほど。当時としては、手頃だったのです。
これを改造したら、パソコンを作れるぞと。
さらに、ビル・ゲイツが作ったプログラムを使ったら、とても使い良いパソコンになるのでは。そう考えて、米国にいるビル・ゲイツに直接会いに行ったわけです。
創業初期のゲイツ氏(写真:© Doug Wilson/CORBIS/Corbis via Getty Images)