【プロ野球】機能しないFA制度にみる日本野球界の危機

2019/11/24

金も権限もないコミッショナー

 1993年は、日本に様々な“変化”が起こった年だった。
 1月には今上天皇である皇太子徳人親王と小和田雅子さまの婚姻が決定。また、大相撲の曙が外国人で初めて横綱に昇進した。
 5月にはJリーグが開幕。8月には非自民・非共産連立政権の細川護煕内閣が発足し、自民党が与党第1党、社会党が野党第1党の「55年体制」が崩壊した。
 そして9月、プロ野球ではフリーエージェント(FA)制度が誕生している。
 ドラフトで「職業選択の自由」が極端に限定されるプロ野球選手にとって、FAは大きな権利だ。しかし、最後の最後であまりに拙速に制度導入が決められた。
「FAの形ありきの選手会」「巨人への対抗意識を隠さないダイエー」「選手流出を恐れた西武」……さまざまな思惑が重なった結果だった。それはこれまでの連載で見てきた通りである。
【検証】「FA制度」では、なぜ悪者が生まれるのか?
「日本でFAが適正に機能しているとは思えないですよね」
 FA問題等研究専門委員会でメジャーリーグの例を紹介した慶應義塾大学法学部教授(現在は名誉教授)の池井優は、制度発足から26年が経った現在、そう感じている。本来、選手たちが生き生き働ける場所を見つけるための権利であるはずが、決してそう機能しているようには見えないからだ。
 1991年にFA制度の本格的な検討が始まった頃、「時期尚早」と訴えていた日本ハムファイターズの球団代表・小嶋武士には今も無念さが残っている。なぜ、FAは議論不十分なままスタートしてしまったのか──。
 「選手たちから、入団時はドラフトで自由がないのだから、一定期間チームに貢献したら自由になる権利がほしいという要望があった。
 彼らは『お金ではない』と言ったけれども、実際に導入するとなればFAはお金にまみれた契約制度になってしまう。そういうことを選手会は表向きに出していなかった。要は『権利としてほしい』と。それは世間に受けるわけです。
 読売にしても『自由になればうちに来る』というメドが立っているのであれば、導入したほうがいいとなる。そこで最初にドラフトの改正(逆指名制度)で風穴を開けてセ・リーグ側を黙らせた(第2回)。
 パ・リーグ にもFA制度導入は『ある程度しょうがない』という空気をつくって提案をポンと出した。それに堤(義明)さんが制度を答申する2カ月くらい前に『FA制、反対』と出したものだから
 各球団が水面下で駆け引きを行うなか、FA制度は“導入ありき”でスタートした。あまりに球団有利に制度設計されたのは、球団主導でつくられたからだ。
 逆に言うと、本来、“物申すべき者”の声が足りなかった。選手自身とNPBのコミッショナーである。
「はっきり言って、コミッショナーというのはお飾りみたいなものですよ」
 池井が第三者としてそう言えば、小嶋が当事者として指摘する。
「実行委員会は、読売の意向通りになる体質が長年続いてきました。パ・リーグがいくら反対しても通らない。コミッショナーなんていうのは、あってないようなものだから。(読売に)言いなりみたいな形です。
 12球団の実行委員会は各球団の利害関係がもろにぶつかり合う場所で、議論が伯仲してある程度“強権”がパッて見えたとき、(コミッショナーは)去っていく形が続いていた」
 日本プロフェッショナル野球協約の第8条では、「コミッショナーは、日本プロフェッショナル野球組織を代表し、管理統制する」と規定され、同時に「コミッショナーが下す指令、裁定、裁決ならびに制裁は、最終決定であって、この組織に属するすべての団体と個人を拘束する」とされている。
 しかし小嶋が指摘するように、上記の役割を果たしているとはとても言えない。実際、2004年の球界再編騒動の頃にコミッショナーだった根來泰周は、「コミッショナーには権限も金もない」とこぼしている。
【検証】「FA制度」導入の裏で何が話されていたのか?

「人気・実力のパ・リーグ」への息吹

 日本にプロ野球が誕生したのは、1934年12月26日とされる。巨人の前身である「大日本東京野球倶楽部」が設立された日だ。
 以降、日本のプロ野球は良くも悪くも巨人を中心に回ってきた。2000年代中盤から巨人戦の地上波中継の視聴率が下降していくまで、セ・リーグ各球団が「球界の盟主」から恩恵を受けてきたのに対し、パ・リーグは人気、金銭面で苦しい運営を余儀なくされた。
 現在のようにパ・リーグ6球団が一体となったビジネスモデルが生まれる以前、選手の年俸高騰が不可避なFA制導入に一歩ずつ近づく1990年前後から、パ・リーグは“その後”を見越して様々な手を打ってきた。小嶋が当時を振り返る。
 「パ・リーグ全球団に加え、セ・リーグの代表連中にも『野球界をいい方向に持っていくためにどうするかを議論する機関の設置が必要だ』という者がいて、開発協議会を提唱した。3局、つまりコミッショナーと両リーグの会長は入らないで、12球団だけで会議をしましょうと」
 開発協議会からコミッショナーと両リーグの会長を外したのは、もちろん理由がある。小嶋が説明する。
「諮問委員会(=FA問題等研究専門委員会など)の検討内容がマスコミにリークされすぎているという問題が起こったんです。『どこから漏れるかわからない。そういうことはないようにしてほしい』と注文を出したことがあります。諮問委員会はもともとコミッショナー事務局がずっと持っていた。それで開発協議会は3局を外すと、基本的には漏れなくなった」
 しかし、野球界全体の発展を考える場である開発協議会は、ある頃を境に本来の目的を失っていく。小嶋によると、「球界の盟主」の変容があった。
 「ジャイアンツの代表だった湯浅(武)さんが交代すると、強引に発言するようになりました。開発協議会は自分たちの利益ではなく、野球界全体の発展のためにという目的だったのが、強引に変えられてしまった」
 開発協議会のパワーバランスが崩れる一方、パ・リーグは未来への話し合いを続けた。それが後に、パ・リーグ人気の息吹へとつながっていく。
 FA制度が導入されて5年後の1998年、セ・リーグの会長を務めていた川嶋廣守がコミッショナーに就任すると、日本ハムの球団代表を務める小嶋はこう伝えている。
「今、フランチャイズが東京に固まりすぎている。少なくとも、うちが真剣に検討する」
 後楽園球場、そして東京ドームに本拠を構えていた日本ハムは2004年、北海道にフランチャイズを移した。巨人と同じ東京に拠点を置き続けるより、未開の大地へ移れば新たな可能性が開けるはずだ。小嶋はそう見ていた。
「例えば東京でうちが1億円くらい動かして球団販促活動のためにいろんなことを仕掛けると、それなりに注目されます。ところが読売さんが3000万円くらい投下したら、同じ効果のことをできる。それが彼らの持っているマスコミの力です。
 ところが、うちが北海道に行ってそういうことをやると、(東京でやるよりも)それなりの広がりがあります。だから北海道への移転を考えた。ロッテも川崎から千葉に移りました。九州にダイエーが行った。そして楽天が入ってきた。すべてパ・リーグが進め出したことです」
 大洋ホエールズ(現DeNA)が1978年に川崎から横浜に移転した頃からセ・リーグ6球団は同じ都市に本拠地を置き続ける一方、パ・リーグは地方都市に移っていった。
 1988年に大阪をホームタウンとしていた南海が球団売却し、引き継いだダイエー、そしてソフトバンクは福岡の地で名実ともに「球界の新盟主」になりつつある。2004年に新球団として生まれた楽天は、東北の地から様々な新風を吹き込んでいる。
 同年に札幌へ移転した日本ハムは、地域密着の「育成型」球団として独自の地位を築き上げた。実は、その種はFA制度誕生の翌年にまかれている。1994年10月、千葉県鎌ヶ谷市に野球場や合宿所などを含めた「日本ハムファイターズタウン鎌ヶ谷」の建設を始めたのだ。
【証言】「裏金時代」にできたFA制度の思惑

見据えていた「FA」以降の野球界

 提携先のニューヨーク・ヤンキースから野球経営を学んだ小嶋は、もちろんFA以降を見ていた。
「FAの先を見越して、うちは鎌ヶ谷に130億円を投下して選手を内部で育て、活躍させようという体制をつくった。それが今、生きている。次から次へと選手が育つ。そのために大変な投資をしたわけです。
 他にもその必要性のある球団がいくつかありました。それに対応しなかった球団はむしろ(そういう環境を)手放したりしていた。私がFAを『時期尚早』としたのはそういうことです。他の球団も全部対応できるという見通しを立ててから、FA制に行こうと」
 FAという球界の内部から生まれた変化に加え、外的要因もパ・リーグを新時代へと後押しした。1993年に誕生したJリーグだ。
 日本初のプロサッカーリーグをチェアマンとして主導した川淵三郎は、読売グループの総帥・渡邊恒雄と度々やり合うなど強力なリーダーシップを発揮し、NPBとは異なるモデルでプロリーグをつくり上げようとしていた。
 長期的なビジョンを持ち、スポーツ界全体の発展まで見据えるJリーグに、プロ野球人気を奪われるという危機感を小嶋は抱いた。
「野球界には旧態依然としたものがあって、相変わらずセ・リーグだ、パ・リーグだとやっていた(苦笑)。相手のことは考えず、自分だけ良ければいいと考えていた。Jリーグはそういうところを研究してつくり上げたわけでしょ? 収入構造にしてもそう。Jリーグは野球界を反面教師として、野球界の悪いところを全部改正して導入している」
 収益構造の大きな違いは、放映権料だ。Jリーグではリーグが一括契約して各クラブに分配されるのに対し、NPBでは各球団が個別契約している。
 Jリーグ型の強みが発揮されたのは2017年、DAZNと10年約2100億円という巨大契約を結んことだ。十分な資金を得た各クラブはイニエスタやフェルナンド・トーレスなどの大物外国人選手を補強し、チームを強化すると同時に、多くのファンを呼び込むという投資サイクルを回し始めている。
 かたや、「野球界はまだまだ遅れている」と小嶋は指摘する。
「以前は、日本全体が読売さんのフランチャイズという考え方がありました。その考え方があるうちは、日本の野球界は発展しない。
 だけども今、読売さんは『東京がフランチャイズ』だと東京を中心に力を入れてやり出した。これによって、やっぱり野球界も充実していく。他のところも努力することによって充実してと、少しずつそういう形になってきた。
 プロ野球全体のファンが少なくなっているなか、各球団がフランチャイズのなかで増やしていく体制をつくっていくことができるか。今後のプロ野球はそこにかかっている」
 かつてのプロ野球は読売新聞の販促と結びついていた。しかし若者は新聞を読まなくなり、同時に2000年代中盤からテレビの地上波中継も消えていった。
 一方でビッグデータやAIの時代が到来した今、(デジタル化に伴うビジネスチャンスの拡大とともに各球団はスポーツビジネスを導入し、地元に密着しながら観客動員を右肩上がりに伸ばしている。
 それでも「プロ野球ファン」全体の数は2007年の4183万人から、2018年には2775万人まで減少した(ともに「スポーツマーケティング基礎調査」より。前者は三菱UFJ&コンサルティング株式会社とヤフー・バリュー・インサイト、後者は三菱UFJ&コンサルティング株式会社とマクロミルが実施)。
 このことが示すのは、球場に何度も足を運ぶファンが増えているのに対し、スタジアムには行かないけれども試合中継やニュースは見るというライトファンの減少だ。
 「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた昭和の頃から時代は大きく変わり、娯楽が多様化するなかで人々の趣味嗜好は多岐に渡り、絶対的かつ相対的に野球ファンの“マニア化”が進行している。
 加えて、球界の地盤を揺るがしかねない事態が起こっている。子どもの野球離れだ。少子化の6倍とも言われるペースで子どもたちが野球から離れているなか、果たして、プロ野球ビジネスは今後どんなモデルをつくり上げていくべきか。
 すべては、FAに代表される数十年前の制度やモデル、遺産を変えられない体質にこそボトルネックがあるように感じられる。
 本来、FA導入が議論された25年以上前にじっくり検討すべきだった課題に対し、NPBはいまだに大した手を打てていない。(敬称略)
(執筆:中島大輔、編集:黒田俊、バナーデザイン:松嶋こよみ、写真:田中庸介/アフロ)