【車載ガラス】技術がタブーを凌駕した。AGCの挑戦

2018/3/20
急速に進む、車のIT化。その流れは車の内装も大きく変えつつある。そのひとつが、メーター類などが並ぶフロント部分のインパネだ。今、ヨーロッパの高級車を中心にインパネにカバーガラスを採用するのがトレンドになっている。そこで各社が採用しているのが、AGC旭硝子製の「Dragontrail(ドラゴントレイル)」だ。

なぜ車にガラスが採用されるのか

「グラスフィーリング」
初めて聞く人も多いだろう。この言葉は、AGC旭硝子の車載ガラス事業部で企画グループリーダーを務める湯浅健太郎が発した言葉だ。
「社内外で『なんでガラスなのか』『ガラスじゃなきゃダメなのか』って議論になることがあるとき、こう答えるんです。
ガラスの質感の魅力は実に感覚的なもので、この言葉がいちばんしっくりくる。たとえば初めてスマホの液晶ガラスに触れたときの感覚、覚えていますか? あの感覚です」
湯浅健太郎/AGC旭硝子 電子カンパニー 車載ガラス事業部 企画グループリーダー
しっとりとして艶(つや)やかで、ちょっと冷たくて──。
「だから『何でインパネにガラスなのか?』って聞かれたときも、『グラスフィーリングなんだ』って言っちゃいます」(湯浅)
2017年10月に欧州で発売された新型 「Audi A8」のインパネには、上下2つに分かれたタッチスクリーン式ディスプレイを装備し高級感を演出。
世界で初めて曲面形状のDragontrailのカバーガラスを車載ディスプレイとして搭載している点も注目だ。
ヨーロッパ車と違うアプローチをしているのが、AI化を牽引するアメリカのある自動車メーカーだ。
インパネの中央部分に、タブレットを連想させる17インチの大型ディスプレイを配置。そのカバーガラスにいち早くDragontrailを採用したのだった。
モータージャーナリストの川端由美は、車のインパネにガラスが使われるようになった要因を「自動運転技術の進歩」と分析する。
「Audi A8」は世界初となる自動運転レベル3を搭載。高速道路など特定の場所に限定はされるが、運転操作のすべてが自動化される。
それによって車内空間にこだわる余裕が生まれ、高級志向がより高まっていくのは想像に難くない。
「自動運転技術の進歩によって車内のエンターテインメント空間化が進み、今後はガラスディスプレイのニーズがますます高まっていくでしょう。特にヨーロッパではプラスチックに比べて圧倒的に高級感のあるガラスは、車内インテリアの素材としてとても人気があります」(川端)

5つの化粧で「最強の車載ガラス」を実現

Dragontrailは、もともとスマートフォンのカバーガラスとして開発された商品。
それを車載ガラス向けに「5つの化粧」を施すことで、車載ガラスとしての厳しい条件をクリアした。
すでにスマートフォン用ガラスとして高い評価を得ていたDragontrailに、この5つの化粧を施すことで、安全基準が厳しい車の内装に耐えうる「強くて割れにくいガラス」へとバージョンアップさせたという。
そもそも車内にガラスを使用するのは、車メーカーにとっては絶対的なタブーだった。ガラスは「割れる」素材であり、万が一の安全性を担保できない。
しかし、車載ディスプレイのタッチパネル化の流れと同時に、ガラスの品質や技術が飛躍的に向上。
その結果、これまでのタブーを覆し、自動運転車など時代の最先端を行く高級車の多くが、インパネにDragontrailを採用するようになっている。
これだけの革新的な技術を誇るAGCの車載用カバーガラスだが、前述したように車載ディスプレイ用としてイチから開発されたものではない。そのため、開発コストもかなり抑えられている。
車載ガラス事業部プロジェクトマネジメントグループリーダーの御法川匠は当時をこう振り返る。
「最初に車業界全体の流れとして、車内ディスプレイをスマートフォンのようなタッチパネルにしたいというムードが生まれた。それにはガラスが必要だと、いくつかのメーカーから問い合わせが舞い込むようになったんです」
御法川匠/AGC旭硝子 電子カンパニー 車載ガラス事業部 プロジェクトマネジメントグループリーダー
何か使えるものがないかと社内を見回したところ、商品化されてまだ間もないDragontrailに白羽の矢が立ったのだ。
もちろん、そのままでは車載ガラスに転用できない。
さまざまな条件をクリアするために、社内のあらゆるガラス技術のプロが集結。それはさながら、パズルのピースを埋めるような作業だったという。

急速に生まれ変わる車業界に食い込む

知っての通り、車は今、大変革期を迎えている。ここで新たなガラスのニーズにいち早く対応し先行者利益を押さえることは、今後の車市場における絶対的なアドバンテージとなる。
実際、ヨーロッパ車におけるDragontrailを使ったカバーガラスのシェアはほぼ100%に近く、日本車でも導入が始まっている。
また、同じ素材としてDragontrailを使っていても、スマートフォンの場合は、数年後の次のモデルチェンジで採用されるかどうかは全く未知数だ。
それに比べると、初期段階でシェアを押さえた車載ガラスは、シェアをキープしやすく先行者利益が高い。
車は10年以上という長い製品ライフサイクルを持つプロダクトという点も、AGC旭硝子にとっては大きな魅力だ。
一度シェアを獲得すれば、将来的に長く安定的な取引が見越せる──それが車載ガラスなのだ。

ボトムアップで始まった開発ヘの道

AGCの新たな主力製品となった車載ガラス。その開発の経緯を少し詳しくみてみよう。
車内ディスプレイにガラスを使えないかという相談がAGCにもちかけられたのは2010年ころの話。同時期に、商品化される前のDragontrailをスマートフォン以外にも多様途展開できないかという動きが社内にあった。
社外のニーズと社内の事業展開の思惑。そのタイミングが奇跡的に一致したことが、車載ガラス開発の最初の一歩となった。
「2012年に事業開拓室内に新部材展開グループができて、Dragontrailの多用途展開への体制が整った」というのは、事業開拓室新部材展開グループ設立メンバーに呼ばれた車載ガラス事業部営業グループマネージャーの小川哲生だ。
小川哲生/AGC旭硝子 電子カンパニー 車載ガラス事業部 営業グループマネージャー
メンバーは車載ガラスを軸としながらも、さまざまな分野ヘの売り込みをスタートする。化粧品のコンパクト、コピー機のガラス、時計など、全くの新規参入開拓にもチャレンジするが、結局、車載ガラスのニーズの高まりに事業が集約化していく。
その時の事業開拓室長が、当連載#3で登場した現CTOの平井良典だ。
【CTO×馬場渉】予見してタテとヨコで動く。革新し続ける組織の強みとは
まだ、車載ガラスがものになるかどうかわからないときに、平井の「GO」の一言で、チームが本格的に動き出す。
自動車メーカー、電装メーカーに営業を重ねていく中で、最初のハードルになったのが、クライアントからの「自前で素材から加工、納品まですべてやってほしい」というリクエストだった。
「ベースとなる技術はすべてありました。ただ、5つの化粧を施す設備は、当時のAGCにはひとつもなかったんです」(湯浅)
もちろん、社内からは「そこまで投資をして大丈夫なのか?」という声も上がっていた。
すべてを自前で加工する──その大きな決断を下した平井は、「必要であれば人材をスカウトしてでも確保しろ。絶対に欠品はするな」と、メンバーを鼓舞した。
「平井さんの決断がなければ、今の成功はなかったと思います」(小川)
一方で、平井は決してトップダウン型の上司ではなかった。そのスタンスは、「やりたければ資金は用意する。だから、あとは社内を説得できる材料をそろえろ」というもの。
それがメンバーの気持ちに火をつけたことは言うまでもない。
さらにそこに登場するのが、のちの車載ガラス事業部の事業部長となる江頭剛彦だ。
江頭剛彦/AGC旭硝子 電子カンパニー 車載ガラス事業部 事業部長
AGCで自動車用窓ガラスの営業を担ってきた江頭は、ヨーロッパのクルマ業界事情にも精通しており、車載ガラスの未来がみえていた。
車載ガラスをなんとしてもものにする──。
江頭のその信念は平井とは違う存在感で、メンバーの事業化ヘの思いを熱くする。
2012年4月に事業開拓室新部材展開グループが発足し、本格的に車載ガラス開発に乗り出していく。

山積みの課題をクリアする技術開発の戦い

そんな信頼できるリーダーに支えられながら、メンバーは日々目の前の課題にひたすら必死に取り組んでいた。
「そもそもお客さんが要求するハードルが高いので、一生懸命それをクリアして、そうするとまた次の高いハードルがやってくる。そんな毎日でした」(小川)
車の窓ガラスでは長い歴史もノウハウも社内に蓄積がある。それに優れた素材のDragontrailを活用するとしても、車載ガラスとして開発するにはいくつもの大きなハードルが待ち構えていたのだ。
自前でトータルな商品管理をして、膨大な車載用途の品質要求をクリア、さらに長期供給の確保を提示して、初めてクライアントからの信頼を得られる状況。
「スペック、品質基準、徹底した作業管理ルール、信頼性試験……。とにかく初めて触れるような課題が山積みで、それを一つひとつクリアしていくしかなかった」(御法川)
具体的な開発をスタートしてみると、とにかく「車ならでは」のさまざまな細かい要求が寄せられてくる。ガラスに頭があたっても割れてはいけない。太陽の光が画面に反射して運転手の目に入らないように映り込みを減らす。
5つの化粧工程のすべてにおいて、そういった細かい課題が積み重なっていく中で、「途方に暮れることもあった」と御法川は笑う。

一貫生産。それがビジネス成功の「キラーパス」だった

それだけの課題に真摯(しんし)に取り組んでいく中で気づいたのは、「一貫体制で生産するから、これだけレベルの高い要求に応えられる」という事実だった。
クライアントの要望はあったものの、当初から一貫生産がマストであると考えていた。もし他のパートナー企業と組んでいたら、とても対応しきれていなかったはずだ。
AGCにおいて、最初から最後まで手がけるビジネスは決して珍しくないが、極めて短期間のうちに組織体制を作れることがAGCの強みのひとつとなっている。
さらに言うと、ひとつひとつの工程が、社内の最高技術を結集させたもの。
「そのノウハウは、よそではまねできない。同じ素材を使って、同じような加工をしても、全く違うものになってしまうでしょう」と、江頭はほほ笑む。
それは料理と素材の関係と同じ、と言うのは御法川だ。「高い魚を素人がさばいてもまずくなるが、銀座の一流の料理人が調理するとものすごくおいしくなる。それと同じで、車メーカーが『おいしい』といってくれるレベルにできる技術を持っているのはうちだけ」という。
社内の高い技術をいいとこ取りして一貫生産に集約。それこそが、車載ガラスビジネスの「キラーパス」だったのだ。

いつかすべての車のインパネをガラスに

さまざまな紆余(うよ)曲折を経て、2013年、車載ガラス用Dragontrailの最初の量産化がAGCディスプレイグラス米沢でスタート。
AGCディスプレイグラス米沢(山形県米沢市)
採用したのはドイツの車メーカーだった。ヨーロッパの高級車メーカーに次々と採用され、次の照準は日本車メーカー。
その動きはこの半年で急速に加速しているという。
「ガラスは高級品のイメージですが、私たちは最終的にカジュアルな車やファミリーカーにも入れていきたい」と江頭らは夢を語る。
子どもたちが汚れた手で触ってもすぐにきれいにでき、高い安全性を持つガラスのインパネ。家族の日常のそんな風景にAGCが一役買う日が、すぐそこまで来ているようだ。
(編集:久川桃子、奈良岡崇子 構成:工藤千秋 撮影:北山宏一 デザイン:九喜洋介)