カイラシュ・サティヤルティ氏(2)
【ノーベル平和賞・カイラシュ】私がどうしても許せなかったこと
2016/5/30
第1回:8.5万人の子を強制労働から救い、ノーベル平和賞を受賞した男
第2回:私がどうしても許せなかったこと
第3回:教育が人の心に火をつける
※世界の子どもを児童労働から守るNGO ACEの活動はこちら
カイラシュ:私はインドのヴィディシャーという小さな都市の一般的な家庭で、5人きょうだいの末っ子として生まれました。父は警察官で、私が16歳のときに亡くなりました。
父と兄たちは、とても強い主張を持つ性格で、正直に仕事をする人たちでした。しかしそのために問題が生じることもありました。
なぜなら彼らは賄賂を受け取ったりしないからです。私の母は字の読めない非識字者でしたが、女の子も含めて、子どもたちがよい教育を受けることに熱心だったので、子どもたちのほとんどが博士号を取得しています。
私の姉も高い教育を受けて、最近リタイアするまで大学の学長をしていました。
坂之上:そういう教育は、いまの活動に役に立ちましたか?
カイラシュ:私がエンジニアとしての教育を受けたことは役立っていると思います。
もちろん自分自身の情熱や感情で動いていますが、エンジニアとして培った分析力や合理的に考えるくせがあるおかげで、戦略的に考えることができますから。
もっとも、私が今こういうことをしているのは、いろいろなことが混ざりあった結果です。
私の両親はとても信仰心の厚い人たちでした。私が恐れを知らないのも、信仰心から来ているのだと思います。
身体はいつか朽ちてしまうものだけれど、精神は朽ちないと信じているからです。
あいつは頭がおかしくなったんじゃないか
坂之上:そんなエリートのエンジニアだったカイラシュさんが、この運動を始めたときは、家族や友人に反対されなかったんですか。
カイラシュ:もちろん反対されました。みんなすごく、怒ってやめさせようとしました。母や親しい友達にも泣かれてしまいました。
坂之上:それは何歳のとき?
カイラシュ:26歳です。それまで大学で教えていたのですが、その仕事を辞めてデリーに出てきました。
坂之上:将来有望だったんですよね?
カイラシュ:まあ、そうですね。友達からは、「あいつは頭がおかしくなったんじゃないか」と笑われましたよ。
坂之上:でも仕事を完全に辞めてしまったら、お金は? 生活は?
カイラシュ:いい質問ですね(笑)。強盗をしたわけでもないし、ほかの仕事をしたわけでもありません。
初めのうちは私のアイデアに賛同してくれた、何人かの友人の援助に依存せざるを得ませんでした。
そして私が一番初めに何をしたかというと、雑誌を発行しました。虐待を受けたり、権利を奪われたりしている子どもや女性、ときには男性をテーマにした雑誌を発行したのです。
坂之上:メディアをつくられたんですね。
カイラシュ:いやぁ、初めは本当に大変でした。私が故郷からデリーに出てきたとき、子どもの奴隷について活動しているNGOは本当に一つもなかったのです。
それに関する知識の蓄積も皆無でした。だからこそ雑誌をつくろうと思い立ったのです。そう決めてからは、私も家族も、たくさんの困難に立ち向かわなくてはなりませんでした。
息子のためにミルクやフルーツを買うか、それとも雑誌を発行するための紙を買うか、迷わなければなりませんでした。
カースト制度というもの
坂之上:えっ、結婚して子どももいらしたんですか?
カイラシュ:25歳で結婚したので、26歳のときは子どもも1人いました。
坂之上:じゃあまだお子さんは1歳? 1歳なんて、まだ赤ちゃんじゃないですか。奥さんは「仕事を辞めるのは、もうちょっと待って」とは言わなかったのですか?
カイラシュ:私の連れ合いはいつも私をサポートしてくれました。私たちは学生のときに出会っています。
だから彼女は初めから、「自分はエンジニアと結婚するのではなく、ちょっと狂ったような男と結婚するんだ」とわかっていたと思います。
私は実際には大学で1年半しか教えませんでしたが、なぜ1年半のあいだ働いたかというと、母や家族にお金を稼いで渡したいという思いがあったからです。
坂之上:その仕事を捨ててまで活動に入ろうという、大きなきっかけは何だったんですか?
カイラシュ:その動機をずっとたどっていくと、私の子どものころの思い出に行きつきます。
5歳半くらいのときだったと思います。初めて小学校に通い始めた日、衝撃を受けたことがありました。私が友達と登校すると、校門の横に靴磨きの男の子がいたんです。
彼は私たちを、「この人たちは仕事をくれるだろうか」という期待の目で見ていました。しかし私たちはみんな新しい靴を履いていたので、靴磨きを頼むことはありませんでした。
私が教室に入ってからも、彼の目は私についてきて、一緒に教室のなかに入ったような気がしたんです。
そして私は先生に尋ねたのです。「先生、どうしてあの子は外にいて、僕たちと同じように、この教室に座らないんですか」と。すると先生は言いました。
「まあまあ落ち着いて。学校が始まってまだ1日目なんだから、まずはお友達と仲良くなってね」
実をいうと、こういう反応はよくあることなんです。人々は、貧しい人たちは働かなくてはならないものだと思っているんです。
その子のことを家族や友達に言っても、「貧しい子は働かなくちゃいけないんだよ」と言われました。でも毎朝、登校するたび、そして帰るときもその子に会うんです。
あるとき勇気を出して、彼とその横に座っていたその子の父親に話しかけてみたんです。
「どうして息子さんを学校に行かせないんですか?」
するとお父さんは「そんなこと考えたこともなかった」と言いました。
「自分の父も祖父も、みんな子供のときから働いていたから、そうするのが当たり前だと思っていた」と。そしてその次の言葉は、その後の私の人生を左右するものでした。
そのお父さんは、「あなたは知らないと思うけれど、私たちは働くために生まれて来たんだよ」と言ったのです。ある特定のカーストに生まれた人たちは、働く以外に選択肢がないという意味です。
そのときはまだ私もカースト制度というものについてよくわかっていませんでした。でも私はそんなことは受け入れられなかったんです。
その人たちが自らの自由や教育を犠牲にして、誰かのためだけに働かなければいけないということが、とても許せなかったのです。
その日、私は新しい世界の見方を得ました。つまり社会には正しいこともあれば、間違ったこともあると学んだのです。
(構成:長山清子、撮影:是枝右恭)
※続きは明日掲載します。