ザ・ラストエンペラー、出版界の革命児と呼ばれる男

2016/4/10

ある若手編集者の熱狂

石原慎太郎はかつて、初めて会った若手編集者が目の前で自身の代表作である『太陽の季節』を全文暗唱し始めたとき、思わず口にしたという。
「わかった。もういい。おまえとは仕事をするよ」
芥川賞作家である石原のような大物作家の元には、数多くの出版社から執筆オファーが殺到する。
ただ、当然のことながら、いきなり縁もゆかりもない出版社や編集者と仕事をする大物作家は、まずいない。
出版界の常識の前に、多くの編集者たちが、当たり前のように原稿を取ることができないと考えるのも決して不思議ではない。
しかし、若手編集者だった彼は、何十本ものバラを贈るとともに、石原への底知れぬ情熱をぶつけることで、見事に仕事をもぎとることに成功した。

直木賞作家の五木寛之への手紙

先輩や同僚、上司がどんなにアタックしてもかなわなかった大物作家を口説き落としたのは、1度だけではない。
燃え盛るような熱情が石原の胸を打ったとするのならば、直木賞作家の五木寛之には、情熱を絶やさずにアプローチを続けたことが心を開かせるきっかけとなった。
当時彼が所属していた角川書店と五木の付き合いがない中、彼はコンタクトを取るべく、五木作品の感想を記した手紙を送るようになる。
もちろん、ただの手紙では並み居る編集者の中から、無名の若手であった彼が指名されることはない。
そこで、どれほど短いエッセイでも、書き下ろしの長篇小説であったとしても、五木の新しい原稿が発表された5日以内に、感想をしたため続けた。
その人知れず続けられた手紙は、やがて少しずつではあったが、着実に五木の心に届き始める。
17通目で夫人の代筆による返事が来ると、25通目で初めてホテルでの面会が実現。ついには、雑誌連載の執筆までこぎつけることに成功したのだ。 

有無を言わさぬ圧倒的な実績

誰もが「無理だ」「不可能だ」と思う仕事を実現させてきた彼は、出版界でメキメキと頭角を現していく。
33歳のときに雑誌『月刊カドカワ』の編集長に就任すると、旧知の仲だった坂本龍一による連載『月刊龍一』の掲載や、読者ターゲットの大幅見直しといった抜本的な改革を断行。発行部数を30倍まで引き上げることに成功した。
ひりつくような熱狂と圧倒的な努力に裏打ちされたエネルギーで、大物作家と懇意になったかと思えば、名もなき若手作家を一気にブレイクさせる。
5本の直木賞作品をはじめ、編集者として数々のヒット作を生み出すと、41歳で角川書店の取締役編集部長に就任する異例のスピード出世も果たした。
ところが、業界に名をとどろかせてきた彼は、突如として地位と名声を投げ打つことを決める。42歳のときに、角川書店を退社したのだ。

義理を貫き退職。そして創業

辞職の引き金は、当時の角川書店の社長である角川春樹のコカイン疑惑事件だった。彼は角川の逮捕2日後に、取締役の1人として社長の辞任要求の決議に賛成した。
角川に認められ入社し、育てられたと自認しながらも、その恩師に弓を引いた以上、自らも職を辞することで筋を通したわけだ。
退社に伴い、業界で名の通った彼の元には、数多くのオファーが舞い込む。ただ、転職という選択肢はなかった。
「一緒に角川書店を辞めます」と道をともにした5人と、新たな出版社を創業することを決めたのだ。 
1993年11月12日、会社は個人負担の1000万円の資本金からスタートしたが、前途は多難だった。そもそも出版界は、利益構造や流通制度として後発の企業は利益の出にくいようにできている。加えて、周囲の声も辛辣(しんらつ)だった。
「絶対無理だ。できるわけがない」「あいつは絶対に失敗する」。100人のうち100人に失敗するからやめろとも言われた。
角川書店時代に圧倒的な結果を出し続けてきた彼である。妬みややっかみは言わずもがなで、敵も多かったことは予想がつく。一方で、敵の多い人間には味方が多いのも世の常である。

大物作家たちの後押し

彼が起業の報告とそれまでのお礼を言うために五木の元を訪れたときだ。多くの人間同様に、起業に反対されることを予想しながらも、五木の反応は違った。
「君ならもしかしたらうまくいくかもしれない」と理解を示され、「頑張りなさいよ」と激励されたという。
自分についてきてくれた部下がいる手前、決して表に出すことはなかったが、実は彼にも不安はあった。力強い言葉に背中を押されて思わず涙ぐむ彼を見て、五木はさらに思いもよらない言葉を口にした。
「会社の名前は僕がつけましょう」
創業翌年の1994年、彼は生まれたばかりの「幻冬舎」の社長として、「もう一度ゼロに戻したい。もう一度一つ間違えれば地獄へいく薄氷を踏んでみたい」という闘争宣言を打ち出し、ついに書籍事業に参入を果たすことになる。 
四谷の雑居ビルに入っていた創業当初、「今近くにいる。これから寄るぞ」と、突然石原から電話がかかってきたこともある。10分後、実際に姿を現した石原は、社員を前にしてこう告げた。
「もし俺にまだ役に立てることがあるのなら、何でもやるぞ」
彼はその場で、「裕次郎さんを書いてください」と依頼した。
それまで私小説を一切書いてこなかった石原である。
しかし、「俺もずっと裕次郎のことは気になっていた。いつか書こうと思ってメモ書きしてある。おまえが言うんだったら、書くよ」と快諾したことで、実弟の石原裕次郎を描きミリオンセラーとなった『弟』が生まれた。

道なき道を切り開いてきた挑戦

創業3年目の1997年には、「大手以外は手を出してはいけない」といわれていた文庫を一度に62冊の規模で刊行した。
翌1998年には、郷ひろみと二谷友里恵の夫婦関係の破綻を告白した『ダディ』を、離婚届が提出されたその日に初版50万部で世に出している。
業界の常識や通例を逸脱し、無謀といえる挑戦は、会社を一発で潰し、社員とその家族を路頭に迷わせる可能性もあった。
それでも彼は、「新しく出ていく者が無謀をやらなくて一体何が変わるだろうか?」という自身の言葉通り、幾多の勝負に挑んできた。
時に恐怖に震え、人知れず涙を流した夜もあったが、つらく憂鬱な仕事をやり切ったときにこそ結果が厳然と表れることを知っているのである。
「顰蹙(ひんしゅく)はカネを出してでも買え」「悪名は無名に勝る」という言葉通り、わが道を進んできたことで、その強引な手法への批判や後ろ指をさされることもあった。
しかし、人が休んでいるときに休まず働き、作家との衝突も恐れず、内臓をこすり合わせるようなぶつかり合いを挑んできたことは、紛れもない事実でもある。
「『もうダメだ』からが本当の努力」と語るように、彼には困難から逃げ出さず、正面突破で業界の慣例をぶち壊し、道なき道を切り開いてきた結果と矜持(きょうじ)がある。
彼自身が「斜陽産業」だと言い放つ出版界は、市場が年々小さくなり、危機が叫ばれて久しい業界だ。
先の見えない暗闇で創業から22年にわたって驚異の成長で生き抜いてきた理由について、ある人は「運が良かった」と言い、またある人は「たまたまでしょう」と口にする。
ただ、たった一人、すべてを知っている幻冬舎の社長である彼、見城徹は心の中でこう呟く。
「これほどの努力を、人は運と言う」と。
見城 徹(けんじょう・とおる)
1950年静岡県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、廣済堂出版に入社。75年、角川書店に転職し、文芸界を震撼させた『野性時代』副編集長、部数を30倍に増やした『月刊カドカワ』編集長を経て、41歳で取締役編集部長に就任。その間、5本の直木賞作品など、数々のベストセラーを担当。93年に退社し、幻冬舎を設立。五木寛之『大河の一滴』、石原慎太郎『弟』、郷ひろみ『ダディ』、天童荒太『永遠の仔』、村上龍『13歳のハローワーク』、劇団ひとり『陰日向に咲く』、長谷部誠『心を整える』など23年間で22冊のミリオンセラーを出版。2015年は年間書籍総合ベスト10に下重暁子『家族という病』をはじめ4冊を送り込む。2016年は石原慎太郎『天才』が大ヒット。著書に『編集者という病い』『たった一人の熱狂』など。
*参考資料一覧
たった一人の熱狂──仕事と人生に効く51の言葉』(見城徹、双葉社)
編集者という病い』(見城徹、太田出版)
過剰な二人』(見城徹、林真理子、講談社)
(編集:箕輪厚介、写真:竹井俊晴)