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ハーバード・ビジネススクール 竹内弘高教授(第2回)

マッキンゼーとハーバードからオファー。てんびんにかけて下した決断

2016/1/28
日本人で唯一、ハーバード大学経営大学院で教授を務める竹内弘高氏は、いかにして名門へ至ったのか。多くの学生団体の支援を行う横山匡氏(アゴス・ジャパン)が、その半生を聞く。

日本人は勤勉という勘違い

横山前回、マッキンゼーの就職にはMBA取得が必要と言われ、そういう背景もあってバークレーの大学院に留学した、というところまで話を聞きました。実際にMBA取得後、マッキンゼーへの道はどうなったのでしょうか。

竹内:MBAを取得する3カ月前、もう1度マッキンゼーの東京オフィスに連絡しました。そうしたら「24歳? 若すぎる!」とまた断られてしまって(笑)。当時、東京オフィスはすべて50代の人がコンサルタントとして働いていて、年齢が離れすぎているということでした。

その一方、バークレーで、1年だけ在籍がかぶった野中郁次郎さん(一橋大学名誉教授)から「博士課程を受けてみたら」と勧められました。

野中さんは富士電機を辞めてバークレーでMBAを取り、あまりにも優秀なので指導教官から博士課程に誘われたエリートです。その博士課程在籍の最後の年に、僕は出会いました。

バークレーは勘違いして、日本人なら誰でも野中さんのように勤勉だと思っていて、最低でも1人は日本人を博士課程に欲しいと考えていました。幸か不幸か、当時、MBAのコースに日本人で就職が決まっていないのは私しかいませんでした。

でも私はサンフランシスコにあるマッキャン・エリクソンで週2、3回のペースでアルバイトしていて、あまり勉強していなかったんですね。アカウンティング(会計)は好きじゃない、Cでいいと、宿題もやっていなかった。後ほど、博士論文を書くとき、会計の重要性を思い知りましたが、いずれにせよ、博士課程を受けても、受かるわけないと思っていた。

竹内弘高(たけうち・ひろたか、写真左) 1946年東京都出身。横浜のインターナショナルスクールから国際基督教大学に入学。マッキャン・エリクソン博報堂で1年半働いたあとに渡米し、1971年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士、1977年に博士号を取得。ハーバード・ビジネススクールで7年間勤め、娘の教育のために帰国して一橋大学へ。一橋大学を定年退職後、再びハーバード・ビジネススクールから声がかかって2010年に同校の教授に就任。ファーストリテイリングを経営する柳井正氏のパーソナルアドバイザーも務めている

竹内弘高(たけうち・ひろたか、写真左)
1946年東京都出身。横浜のインターナショナルスクールから国際基督教大学に入学。マッキャン・エリクソン博報堂で1年半働いたあとに渡米し、1971年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士、1977年に博士号を取得。ハーバード・ビジネススクールで7年間勤め、娘の教育のために帰国して一橋大学へ。一橋大学を定年退職後、再びハーバード・ビジネススクールから声がかかって2010年に同校の教授に就任。ファーストリテイリングを経営する柳井正氏のパーソナルアドバイザーも務めている

上司から夢を託された

マッキンゼーとは別に、もうひとつ考えていたのが、アメリカのマッキャン・エリクソンに再び就職することです。サンフランシスコでの上司がニューヨークのバイス・プレジデントに昇格して、会社からニューヨーク行きを勧められたのです。

ただし、その上司が「俺は学者になりたかった。俺の果たせなかった夢をお前が果たしてくれ」と言い出し、その道も断たれてしまった。

そうしたら博士課程に合格してしまったんです。もうこれは神のお告げだと腹をくくりました。野中さんと同じマーケティングを専門に選びました。

博士課程にいくときに結婚をしました。私ほど博士課程をエンジョイした人間はいないのではと思います。年を重ねれば、今度こそマッキンゼーが雇ってくれるという自信もありました。

実際、博士課程を終えるときに、ついにマッキンゼーからオファーが届きました。

横山匡(よこやま・ただし、写真右) 1958年、東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学することになる。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、のちにアゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院を始め海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。NewsPicksの佐々木紀彦編集長も、スタンフォード大学大学院への留学前にアゴス・ジャパンで学んだ

横山 匡(よこやま・ただし、写真右)
1958年、東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学することになる。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、のちにアゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院を始め海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。UCLAバスケットボールチーム・マネージャー時代の経験「なぜ日本人がUCLAバスケ部のヘッドマネージャーになれたのか」が昨年7月、NewsPicksに掲載された

竹内流・てんびんのかけ方

横山:しかし竹内教授は憧れのマッキンゼーではなく、ハーバード・ビジネススクールの講師になりました。なぜ学者への道を?

竹内:当時、心理学をベースにした消費者行動の分析が主流で、その分野はものすごい競争でした。一方、僕は流通をやっていた。

全米マーケティング学会主催でいろいろな大学院の博士課程の学生を集め、有名教授が4日間集中的に教えるという「徒弟制度」みたいなものがあったんですね。44人参加者がいたんですが、流通をやっていたのは僕だけでした。

まずはコーネル、コロンビア、UCLAから連絡があり、そして声がかかると思っていなかったハーバードから面接に来いと連絡があった。

3度目の正直でマッキンゼーからオファーが届き、さらにハーバードから誘われた。信じられないですよね(笑)。僕はてんびん座なので、両者に同じ質問をして、てんびんにかけることにしました。

横山:どんな質問をしたのですか?

竹内:ハーバードには「マッキンゼーに3年行ったら、4年目に採用してくれますか?」、マッキンゼーには「ハーバードに3年行ったら、4年目に採用してくれますか?」と。

マッキンゼーはYES、ハーバードはNOでした。

考える必要はないですよね。3年後にマッキンゼーに行けばいいやと思い、ハーバードのオファーを受けることにしました。29歳のときのことです。

心を動かされた米国の浪花節

横山:実際には3年ではなく、そこから7年間ハーバードに在籍しましたね。

竹内:予想以上に長くなったのは、入りたてのハーバードでケース・メソッドのとりこになったのと、心のこもったホスピタリティーを経験したからです。

新入教員の歓迎パーティーの日、始まる30分前のことです。日本からの電話がかかってきて、父親が心筋梗塞で亡くなったと告げられました。

ハーバードで教え始めて1カ月も経っておらず、日本へ帰る旅費がなく、当時クレジットカードも持っていなかった。父親とは、前回の日本滞在時に三日三晩話し込んで「俺が死んでも帰ってくるな」と言われていたので、帰国を諦めていました。

でも、やっぱり様子がおかしかったんでしょうね。僕の上司が「何があった?」と気がついてくれた。事情を伝えると、「こんなところにいる場合じゃない、すぐ日本に帰れ」と、無理やり僕を車に乗せて空港に連れて行ってくれた。

そして彼のクレジットカードで、チケットを買ってくれたんです。「心配するな、お前の授業は俺が受け持つ。好きなだけ日本にいろ」と。

オープンチケットだったので、ものすごく高かったと思います。給料の数カ月分だったのではないでしょうか。

アメリカにも、義理、人情、浪花節があるんですよ。僕は頭文字を取って、これをGNNと呼んでいます。

子どもを育てるなら日本で

横山:ハーバードの7年目に帰国し、次は一橋大学の助教授になりましたね。帰国のきっかけは何だったのでしょうか。

竹内:一番大きかったのは子どもの教育です。妻と話して、やはり子どもを育てるなら日本がいいよねと。ボストンにいると孤立していますが、日本には祖母も従兄弟もいる。自分の経験からしても、ワイワイガヤガヤしたほうがいい。

それに日本人としての価値観を植え付けるためには、子どもの頃から日本に住まなくちゃいかんと。僕はインターナショナルスクールに通った「半ジャパ」ですが、価値観はすごく日本的なんですよ。

(構成:木崎伸也、写真:大隅智洋)

*目次
前編:ハーバード竹内教授の原点。手紙と交渉で勝ち取った外資系の内定
中編:マッキンゼーとハーバードからオファー。てんびんにかけて下した決断
後編:ハーバードの学生に人気の「インサイド・アウト」の授業