高校野球の経験なしには、M&Aの世界で勝負できなかった

2015/7/31
 「野球が、私をつくりあげたんです」──。そう語る表情に、一点の曇りもない。日本のM&Aの実務と研究の第一人者として活躍するインテグラル代表・佐山展生は、ビジネスパーソンとして、自身の根底にあるのは野球の経験だと断言してはばからない。スカイマークの支援や阪急・阪神統合など、常にシビアな現場で闘い続けている注目の経営者は、甲子園を目指した高校時代に取り組んだ野球から何を学んだのだろうか。  

佐山展生をつくりあげたのは高校野球

甲子園と言うと、ひと握りの強豪校やスーパープレーヤーが注目を集めますが、大多数は、勉学との両立に悩みながら甲子園を夢見て野球を続けているのを忘れないでください。京都市の母校の洛星高校はまさにそういう学校であり、野球部です。今日、私が何とか生きているのは、まさしく野球をしていたおかげです。
野球を通じ、いかに多くのことを学ぶことができたかを少しでもわかってもらえれば幸いです。野球で身を立てていこうとは思っていない大多数の高校生の視点でも「甲子園」は重要だと思います。
私が社会に出て人生の岐路に立つたび、思い切った決断をさせてくれたのは高校野球で培った体力と精神力でした。それにより数々の修羅場をくぐり抜けることができたと思っています。
高校野球の経験が仕事でどのように役に立ったか。この質問に答えるなら、「すべて」です。今の私は野球なしにはありません。毎日グラウンドで白球を追いかけた経験がなければ、きっと何度も挫折した挙句、どこかで野垂れ死んでいたでしょう。
33歳で帝人を辞めて三井銀行(現・三井住友銀行)に入ると言ったときには、周囲の全員に反対されました。若い皆さんには想像ができないかもしれませんが、当時は転職自体のなかった時代ですし、職種も銀行はそれまでの技術系とはまったく違います。何が不満なんだと言われました。しかし、面接で「M&A」という言葉を初めて聞いて、「『M&A』は面白そう」という思いのみで転職を決めました。当時、「こいつは何を考えてるんだろう」と周囲は思ったことでしょう。
30歳になって、大企業で定年までいるのが自分の人生ではないと悟って、司法試験の勉強に真剣に取り組んでいた中での転職でした。その際、「銀行でうまくいく確率は?」と聞かれていたら、5%未満だと答えていたでしょう。
しかし、もし銀行で駄目だったら道路工事や夜警のアルバイトをしながら司法試験に集中しようと思っていました。また、実際にやり抜く自信もありました。そうやって自らの意思を貫き通すことができたのは、高校野球で培った体力と気力があったからこそだと思います。
クラウン・リーシング、阪急・阪神統合やスカイマークの案件もそうですが、本当に厳しいM&Aの現場では、毎日予想外の難局が待っています。何回もジェットコースターのように状況が変化しますが、案件が潰れそうなときにいかに踏ん張るかが勝負で、調印するまでその連続です。周りがもうダメだと言っても、1%でも可能性が残っていれば、自分だけは「いや、まだやれる」としぶとく食い下がらないとM&Aはやり切れません。
阪急・阪神統合など難しい案件については、取り組み始めたときは「1%未満の成功確率」という状況からスタートします。そんなに確率が低くても取り組んだのは、勝負は最後の最後まで何が起こるかわからないからです。
ビジネスにおいて粘っこく真剣勝負し続けられるのは、野球を通じ、ゲームセットになるまで何があるかわからないという経験や、勝てそうにない相手にも勝つことがある実体験をしていたからだと思います。
そのため、私がビジネスについて語るときには野球のたとえが非常に多くなります。これまでの経験を忘れないようにいろいろと書きためていて、大学の授業やセミナーでそのお話をしますが、それをご覧になると本当に今の私が野球でつくられていることがわかると思います。
これから高校時代を振り返りながら、いくつか紹介していきます。(以下、本文の強調部分)
1971年夏の京都府予選での洛星高校野球部。(前列左から2人目が佐山展生)

野球に明け暮れた中学・高校時代

私は京都の洛星中学校に入学後、中1の4月から本格的に野球を始めました。中高一貫校だったので、そのまま洛星高校に進学します。
高校では、最初はほとんどがボール拾いとグランド整備の毎日。2年生の秋にやっとレギュラーになりました。秋は2番で春と夏は1番・ショートです。足は速いほうで、内野ゴロの捕球とバントには絶対の自信がありました。
練習は毎朝7時からの朝練、昼のグランド整備、そして放課後は日が暮れるまで練習です。休みは正月の三が日だけ。毎日がそんな生活だったので、家に帰るとへとへとでした。西野文雄監督(当時)からは、中1の4月の入部直後から6年間ずっと何度も次の2つのことを言われ続けました。
「きちんとあいさつをすること」「高校3年生の夏までやり抜くこと」。これが社会に出たら必ず生きると伝えられました。当時はどうして野球が役に立つのかわかりませんでしたが、社会に出てみるとまさに実感しました。
夏の甲子園予選が終わって、上級生が引退した2年の8月にキャプテンになりました。このキャプテンの経験は非常に大きかったです。神様のように絶対的な監督と、不満を言うメンバーとの板挟みになるうえ、監督がいないときにはみんなを引っ張らなければなりません。
まさに会社の中間管理職のような存在です。うまくいかないことのほうが多く、結構しんどかったですが、一生懸命に取り組んだ経験が間違いなく今につながっています。
進学校でしたが、受験勉強なんかやればできると思っていたので、そんなことは気にもせず冬の間に走りこんで、高校3年生を迎えました。周囲からは「あいつら、勉強もせずにいつまで野球ばっかりやってるんや」と思われていたかもしれませんが。

夏の地方大会で優勝候補を撃破し準々決勝へ

高3最後の夏の京都府大会では、2回戦の水産高校(現・海洋高校)に勝った翌日、3回戦で優勝候補筆頭・大谷高校と対戦しました。平安高校が不祥事のために出場しなかった大会で、大谷高校は優勝候補の断然トップ。
朝日新聞の夏の高校野球特集の1面が大きなカラーの大谷高校ナインの写真でした。対する私たちは、硬式野球ではまったくの新興校。誰も勝てると思っていなかったし、大谷高校も負けるはずがないと思っていたでしょう。
「この試合が高校生活の最後の試合になる」との思いで、本当に無欲で臨みました。そのせいか、相手投手の速球のキレが良かったのを覚えているくらいで、試合中の記憶はあまりありません。9回裏の守りにつくときに「あれ、2対0で勝っている」と初めて気がつきました。
しかし、最終回、気がつくとノーアウト満塁のピンチを迎えていました。8番バッターは三振。9番バッターが打席に入り、バットを振ると、二塁ベース寄りのセカンドゴロでした。私はセカンドのトスを受け二塁ベースを踏み一塁に投げてダブルプレー、試合終了となりました。優勝候補を完封し、球場が沸き立ったのを覚えています。
次のベスト4を懸けた準々決勝はその翌日、3連戦で強豪の花園高校。この試合、7回表まで6対0で勝っていて、そのときまでノーヒットノーラン。しかし直後の7回の裏、きわどいボールは全部ボールで7連続四球。ヒットも打たれ、6対6の同点になってしまいました(試合後、コーチが主審に抗議したほどです。高校野球で主審に抗議することなどありません。主審の答えは、「全部ボール3分の1外れていた」というもので、新興校と古豪の差による不公平な判定ではなかったかと、今でも洛星野球部では語り草になっています)。
それでも8回の表に1点を勝ち越し、7対6で迎えた9回表、ノーアウト一、二塁で私に回ってきました。ベンチを見ると、監督は「打て」のサイン。この試合ではたまたま2本ヒットを打っていたので、思い切りバットを振りました。
手ごたえは十分。今でもその感触を覚えています。しかし、結果はライトライナーで、ランナー2人が走っていてダブルプレー。結局、チャンスを生かせませんでした。ベンチに戻ると、監督から「どこ見とるんじゃ!」と怒られたことをよく覚えています。
サインは、バントエンドランだったのです。中1から前日までずっと監督がサインを出していたのですが、この試合からはマネージャーがサインを出すことを完全に忘れていました。中学から大学までの間にサインを見逃したのは、これが最初で最後でした。
そして9回裏、相手の反撃とエラーが重なり、逆転サヨナラ負け。私たちの高校野球はベスト8で幕を閉じました。

夏の大会から得た勝負の摂理

そのときはわかりませんでしたが、社会に出ていろいろな経験を積んで、大谷高校との試合からは、「人間の力には、それほど差はない」ことを学んだのだと気づきました。実力で言えば彼らのほうが圧倒的に上なのですが、勝敗は実力だけで決まるわけではない。「気持ち」の大切さを教えてもらいました。無心に相手にぶつかれば、勝機は訪れます。
「『弱いと思っていたもの』が『強いと思っていたもの』に勝つ、そこに勝負の醍醐味(だいごみ)と興奮がある」のです。それはビジネスでも同じです。最後まで諦めず、無心に立ち合う姿勢が勝利を呼び込みます。また、「勝てると思うから隙ができる」ので、結果が出るまで集中することが重要です。
そして最後の花園高校の試合で得た教訓は、「負けるときは原因がひとつではない」ということ。追加点を入れていれば7対0で7回コールドゲームになっていましたし、主審の判定がもう少しフェアなら、私がサインの見落としをしていなければ、最終回にエラーがなければ……。挙げるといくつもの敗因がありました。「事故や敗戦の原因はひとつではない。いくつものミスが重なって事故や敗戦につながる」ことを教えてくれました。
このように、ビジネスと野球は驚くほど共通点があります。野球で負けたときの悔しさから「勝負は僅差でも勝たんとあかん」ということも学びました。野球もビジネスも善戦しても駄目。結果を出してなんぼだと思っています。

甲子園が、甲子園らしくあるために

私にとって甲子園は、夢や憧れというにはおこがましいほど遠いかなたの存在でした。ただ一瞬だけですが、3年の夏に、それが手に届くかもしれないと思えました。その年に優勝したのは、決勝で花園を下した宮津高校でした。
今年で高校野球が100周年を迎えますが、甲子園の夏の大会における優勝が頂点だということは変わってほしくありませんし、最後の夏にすべてを懸ける球児たちの全力プレーを、いつまでも見たいと思います。
ただ、そのためには、これまで指摘されている問題も含め甲子園の在り方を変える必要があると思います。
1. 過密スケジュールの改善
当時、私たちが甲子園に出場するためには、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝、そして京滋大会となんと6連戦になっていました。
結局、京都府優勝の宮津高校も、1日休んでいた滋賀県予選優勝の比叡山高校に負けてしまいました。6連戦は、特に投手には過酷すぎます。現在はそこまでの連戦は珍しくなりましたが、投手にとっての負担はいまだに大きいままです。
甲子園大会は、夏休みの特定の期間に日程が押し込められていますが、これは夏休みを活用しようというある意味「大人の都合」で決まっています。今年の京都府大会は、7月11日(土)から始まっています。もっと前倒しで、以下のようにすると良いでしょう。
(1)6月下旬からスタートする  
(2)平日の夕方にも試合を入れる  
(3)最初は近隣地区同士の対戦にし、球場までの移動時間を短くする
6月下旬から日曜祝日に加え平日の午後もやれば、特に準々決勝後の試合の間隔も取れるようになります。
2. 勉強などと両立しながら練習に励む球児にもスポットを当てる
甲子園はどうしても、ほんのひと握りの強豪校やスタープレーヤーが注目を集めますが、大多数の高校生は、将来、野球で生計を立てるのではないが、真剣に野球に取り組み、強豪校に挑戦しています。
春の甲子園には、秋の大会の結果を参考に「21世紀枠」があり、甲子園に出場してなかなか健闘しています。夏にも、何校か「21世紀枠」を設定すると、そのような学生の励みになると思います。勉学との両立に悩みながら野球に打ち込んでいる学生に大きな希望を与えると思います。
いよいよ、今年もまた甲子園が開幕します。皆さんには、ぜひ出場している選手一人ひとりに思いをはせてもらいたいと思います。
たとえ1打席だけの出場で三振に終わっても、ベンチで声を出して出場機会のなかった選手たちも、ベンチにも入れないで応援席でユニフォームを着て大声で応援している選手たちも、彼らは厳しい練習に耐え、苦しさを乗り越えて、グランドだけではなく、応援席で、晴れの舞台に立っています。勝ち負けを越えた高校生活の集大成を見てほしいと思います。
元高校球児として、高校野球に力いっぱい取り組んだ高校生が、そこで得たものを生かして、将来、力強く生き抜いていくことを心から祈らずにはいられません。全力投球した高校球児に幸あれと願いたいと思います。
(追記) 今年の68校参加の京都市中学校野球夏季大会で、母校の洛星中学39年ぶり2回目の優勝を果たしました。
当稿が掲載されるときには結果が出ていますが、7月29日(水)に京都府大会準々決勝、30日(木)に準決勝と決勝が行われます。中学も優勝するには2日間で3試合です。選手のみんなが、高3の夏まで続けて、甲子園に出場することを心より願ってやみません。
佐山展生(さやま・のぶお)
1976年京都大学工学部卒業。1994年ニューヨーク大学大学院(MBA)、1999年東京工業大学大学院社会理工学研究科博士後期課程修了。帝人、三井銀行(現三井住友銀行)を経て、1998年代表取締役パートナーとしてユニゾン・キャピタルを共同設立。2004年GCA共同設立、代表取締役就任。現在、インテグラル代表取締役、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授、京都大学経営管理大学院客員教授。(撮影:福田俊介)