2024/3/29

会話の“即”見える化が、ろう難聴者のキャリアを開く理由

NewsPicks Brand Design Creative Editor
 2024年4月より、すべての事業者に義務化された「合理的配慮の提供」。
 合理的配慮の提供とは、障がいのある人から「社会的なバリアを取り除いてほしい」という意思が示された場合に、負担が過重でない範囲で必要かつ合理的な対応をすることだ。
 新制度と同時に、企業に義務付けられる障がい者の平均雇用率が2.3%から2.5%へ引き上げられた。
そんな今、企業からの引き合いが増えているのが、リコーのろう難聴者向けコミュニケーションサービス「Pekoe(ペコ)」だ。
 Pekoeでは、会話を音声認識によってリアルタイムで文字化でき、誤変換も参加者がその場で修正できる。
 2018年時点で、日本のろう難聴者率(難聴またはおそらく難聴だと思っている人の割合)は11.3%にのぼり(※)、大勢のろう難聴者が実際にビジネスの現場で仕事に就いている。
※日本のろう難聴者率:一般社団法人日本補聴器工業会「Japan Track 2018 調査報告」より
 ただ、多くの職場において、聴者がなかなか気づけない「障がい」が依然と横たわる。
 もしPekoeが目指す、「ろう難聴者が特性や強みを最大限に生かして活躍する社会」が実現すれば、DE&I(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)はもちろんのこと、企業や社会の生産性も着実に向上するだろう。
ろうや難聴を持つビジネスパーソンは、日々どんな悩みを抱えて仕事しているのか。そしてPekoeは、それをどう取り除こうとしているのか。
 Pekoeの開発者と、実際にリコーで働くろう難聴者へのインタビューを通し、相互の思いを理解していく。

「こうして」とは言えない。知られざる、ろう難聴者の悩み

──貴社では現在、ろう難聴者の方がどのくらい働いていますか。
岩田 リコーグループには、グループ会社を含めて多くの方が在籍しています。
 ひと口にろうや難聴といっても、多様な特性があります。まったく聞こえない方、少し聞こえる方、言葉を覚えてから聴覚がなくなった中途失聴の方など。
 そうした方々の特性と能力、適性により、携わる仕事はさまざまです。リコーグループでは比較的、設計業務に就かれる方が多いのですが、決してそればかりではなく、バックオフィス業務に携わる方もいます。
──当事者である高橋さんはリコーでどんなキャリアを歩んでこられたのでしょう。
高橋 リコーには新卒で入社し、30年ほど勤務してきました。現在はデータベースの情報入力およびメンテナンスといった業務に就いています。
ろう難聴者である高橋さんはリモートで取材に参加。インタビュアーからの質問を「Pekoe」でテキスト化し、それを手話で返答してもらっている
──これまで、仕事をする上で大変なことはありましたか。
高橋 やはり、会話です。筆談やタイピングが中心になるのですが、時間がかかってしまうので、伝えることも制限されます。そもそも、情報を教えていただく機会自体が限られていると感じることもあり、モヤモヤを抱えていたと思います。
 でも、「教えてください」と繰り返し聞きつづけたことで、「自分も会社の一員としてちゃんと知りたい」ということを少しずつ理解してもらえ、だんだんと内容を共有していただけるようにもなりました。
──他に、周りにもっと理解してもらいたいことはありますか。
高橋 現状ですでに、私たちに対して理解を深めようと努力してくれていると思います。
 ただ、打ち合わせでは、私に合わせてゆっくり進めてくださるんですが、それでも速いなと感じることがあります。でも、みなさんにとってはすでにゆっくりだと思うので……。そうしたスピードの感覚をそろえるのは、なかなか難しいです。
──岩田さんは、ろう難聴者の職場環境について、どう感じていましたか。
岩田 Pekoeの立ち上げに際して、ろう難聴者の職場環境に目を向けたのですが、IT技術がこれだけ進んでいるにもかかわらず、多くの企業でやり方がほとんど変わっていなくて驚きました。
 会議では、ろう難聴者の方の横で聴者が内容をタイピングしてあげていたり、そもそも会議には参加せずに後で議事録を読んでくれればOKとしていたり。
 障がいがあることで仕事が制限されたり、逆に不要な配慮がされたりする現状を見て、これはテクノロジーで解決できるのではないかと感じたことがPekoeの開発につながっています。

音声の自動テキスト化で、“申し訳なさ”がなくなった

──そうした背景のもと、Pekoeの開発が始まったわけですね。
岩田 ただ、実は当初はまったく別もので、電子黒板と音声認識を組み合わせた会議用のソリューションだったんです。会議での発言が、電子黒板に表示され、記録されるというような。
 開発していた2016年当時は日本語の音声認識のレベルがまだ低く、会議で映すとみんなが誤変換を笑ってしまうので消してくれと言われたりもして……。その後、音声認識レベルは上がりましたが、結局いくつかの事情で発売には至りませんでした。
 しかし、それを社内で開催された技術展示会に出したところ、情報保障(手話通訳、PC文字通訳など)に関わる社員が見て、「ろう難聴者の方に使ったらすごくいいのでは」と提案をもらって。
 それがきっかけで、ろう難聴者向けサービスにピボットすることになったんです。
 あわせて、私自身の経験も、きっかけの一つになっています。
──自身の経験とは?
岩田 出産を機に、育児に専念しなければならず、思うように仕事ができなかったことがありました。
 働くことへの意欲はあるのに、思うように携われなかった体験が、ろう難聴者の方たちの現状とリンクして。だからこそ、それをテクノロジーで解決できるなら、ぜひやりたいなと。
 そうして開発を進め、2022年8月、Pekoeは晴れてリリースとなりました。
──音声認識によるリアルタイムの字幕表示は、他のWeb会議ツールでもできると思いますがPekoeならではのユニークポイントとは、何でしょうか。
岩田 大きな特徴の一つは、いったん表示された字幕を、好きなように修正できる点です。それもただ直せるだけでなく、ゲストを含めて参加者の誰もが修正に参加できる。
 根底には、みんなが自然と協力し合いたくなるような、楽しい雰囲気を作りたいという思いがあります。
 だから、発言をただ文字化するだけでなく、そのチャット上で気軽に“いいね”を押せるようにもしていて。そのように「コミュニケーションを楽しめる」ツールであるところが、Pekoeのユニークポイントだと捉えています。
──高橋さんは実際にPekoeを使ってみて、いかがでしたか。
高橋 もともと私たちが会議や会話の情報を得るには、聴者の方のサポートが必須でした。しかし、やはりそのやり方だと、聴者の方の負荷が高く、いつも申し訳ないと思っていました。
 でもPekoeであれば音声が直ちに文字化され、誤変換も参加者のみんなで修正でき、筆談やタイピングの負荷を大幅に減らせます。やり取りにかかる時間も、すごく短くなりましたね。
 これまで情報が欲しいと思いながらなかなか言い出せなかったろう難聴者も、Pekoeがあれば多くの情報を得られます。その点が、とてもありがたいなと。
──具体的に、業務はどう変わりましたか。
高橋 打ち合わせに参加したとき、会話の内容をリアルタイムで把握できるようになりました。今まで知れなかった情報を理解できるようになり、大変うれしく感じています。
岩田 他のろう難聴者の社員からも、こんな声が挙がっています。
「誰かのタイピングの助けがなくても話を理解できることが、とてもうれしいです。タイピングする人の負担も、自分がタイピングを頼む苦痛もなくせて、みんなにうれしいツールだと思いました」と。

ろう難聴者の特性が最大限に生きる社会

── Pekoeはこれからどんな展望を描いているのでしょうか。
岩田 さまざまなろう難聴者の方とお話しする中で見えたのが、多くの企業ではまだ比較的簡単な仕事しか任されていないことです。
 それは、指示を出す側が大変だからという場合もあるし、本人がそれを望んでいる、あるいはそれが実際に適正であるケースもあるでしょう。
 一方で、もっとこんな仕事をしてみたいと思う方も、たくさんいることがわかりました。Pekoeを通して、そうした方々の後押しをしたいなと。
 まさしくそれは「能力開発」ですよね。障がい者手帳を持っているからとか、難聴の度合いによって仕事が制限されるのではなく、その人のいいところ、得意なことをもっと伸ばせる仕事環境にするべきだと考えています。
高橋 一方で、ろう難聴者が新しい挑戦のためになにかのまとめ役を任されたものの、メンバーとのコミュニケーションがままならず苦労してしまったといった話も聞いたことがあります。
 そうした状況もあって、なかなか「この仕事をやりたい」と言いにくい部分もあるのでしょうね。
岩田 おっしゃる通りだと思います。だからこそPekoeによって、そうしたハードルを下げていきたいんですよね。
 実際、耳は聞こえなくてもやりたいことを伝え、Pekoeを使いながら望む仕事をどんどんしている方もいらっしゃいます。
高橋 その点でいえば私も、Pekoeをある会社に紹介する際に、同行させてもらったことがあります。
 まさにPekoeがあったおかげで会社訪問や、サービスの提案、あるいはその会社のことを考えるなど、上司にサポートしてもらいながらですが、普段は経験できない仕事に携われました。
 結果的に、Pekoeをトライアルしてくださることになり、その後成約にもつながって、私自身も社内のアワードで特別賞をいただきました。
岩田 アワードを受賞したんですか!
 高橋さんは営業職ではありませんが、もともとPekoeをすごく活用されていて、他社にも自ら訪問して紹介したいと提案してくださったんです。
 そんなふうにPekoeを介して、今までと違う業務にもチャレンジしてみようと実行されているのが、本当にすばらしいなと思います。

何気ない対話の積み重ねが世界を良くする

──実際にPekoeをリリースしてから1年半ほど経ちますが、他の企業からの反響はいかがでしょうか。
岩田 2024年4月の「合理的配慮の義務化」にともない、企業さまからの問い合わせも増えています。
 また2025年11月には、耳の聞こえないアスリートのオリンピックであるデフリンピックが東京で開催されるので、音声情報の文字化がさまざまな場面でより求められるでしょう。
 そのように、時代の流れとPekoeがリンクするのを実感しています。
──一方でリリースしてからわかったPekoeの改善点などはありますか。
岩田 最近は現場に出るろう難聴者の方が少なくなく、Pekoeをスマートフォンで使いたいとの要望も多くなっているので、今準備を進めているところです。
 現状、日本語の音声認識の精度は、静かな環境であれば95%くらいまで上がっていて、コモディティ技術になりつつあります。
 次には、ろう難聴者の方の発音や口話の特性を理解できる音声認識エンジンも、開発されるのではないでしょうか。
 将来的に実現したいのは、ろう難聴者の手話を認識して文字や音声にするソリューションです。
 ただ、まだ技術的なハードルが高いので、それよりも前に聴者の会話を手話アニメなどで伝えるなどが近い将来実現するのではないでしょうか。やはり、文字でやり取りしつづけるのは大変なので。
 ろう難聴者がより自信を持って働くには、テレビやラジオも含め、日常生活からも情報をどんどん得られることが大切です。
 だからこそ、仕事の場面だけにとどまらず、もっと広いシーンで聞こえないことの障がいを下げていきたいと思っています。
──最後に、ろう難聴者が、それぞれの特性や強みを最大限に生かせる社会にするために必要なものとはなんだと思いますか。
岩田 今後はテクノロジーにより、聞こえないことによるハンデが減ってくると思います。
 しかしその一方で、聴者たちによる「ろう難聴者にはここまでしかできない」といった思い込みを払拭するのは、簡単ではありません。
 だからこそ、「私たちは、これもできるんだ」といったろう難聴者の声を聞くコミュニケーションが重要になります。
 そうして思いをすりあわせ、仕事環境を整え、また声を聞いての繰り返しなのかなと。それには、お互いの歩み寄りと努力が大切になります。
高橋 私たちが、聞こえないことややりたいようにできないことに悩むのと同じように、聞こえる人たちも私たちのことで悩んでいると思います。
 たとえば「この仕事を任せていいのだろうか」とか「Pekoeをどう使うと、より助かるのだろう」とかですね。口には出さずとも、みなさんそうした悩みを少なからず抱えているはずです。
 それらを解消するには、互いのことをもっと知らなくてはいけません。結局は「互いに理解し合うこと」が、いい方向に向かう最大のカギになると思います。
 理解し合う上で大切になるのが、普段の何気ない会話です。それによって互いの理解が進んでいくし、少しでも会話があれば、孤独感からくるストレスやさみしさも軽くなります。
 何気ない対話とほんの少しの理解の積み重ねが、双方の世界をより良くしていけると思っています。