2024/1/6

紫綬褒章を受章したイノベーターが語る、自分の人生の見つけ方

NewsPicks編集部
東京・お台場にある日本科学未来館(Miraikan)の館長が20年ぶりに交代した。
初代は日本人で初めての宇宙飛行士 毛利衛氏、その次に抜擢されたのは、浅川智恵子氏。コロナ禍真っただ中のことだった──。
浅川館長は、14歳の時に視力を失い、大学では文系に進むも、最終的に選んだ仕事はプログラミング開発だった。
点字情報ネットワークを作ったり、ウェブ上の情報を読み上げる「ホームページ・リーダー」を作り、視覚障害者の情報アクセシビリティを著しく向上させたりと、障害者のアクセシビリティの技術開発に人生をかけた人物だ。
その功績がたたえられ2013年には紫綬褒章、2019年には全米発明家殿堂入りを果たしている。
障害者の人生を大きく変えるような発明を次々と世に出しただけでなく、自らが発信者となって、TEDでスピーチするなど、当事者として社会を動かした。
人生の逆境を強みに変え、突き進んだ体現者なのだ。
なぜ浅川氏は、イノベーションを起こし続けることができるのか、テクノロジーで社会を動かすことができたのか、直撃した。
INDEX
  • 文系からプログラミングへ
  • 視覚障害者という「強み」
  • テクノロジーが人の輪を作る
  • 当事者であり開発者の「役割」
  • 社会実装という壮大な試み
  • 全盲の館長だからできること
  • 「慣れる」ための環境を作れ
  • 諦めなければ、道は拓ける

文系からプログラミングへ

──浅川館長はこれまでに社会を変えるようなイノベーションをいくつも起こしてこられました。何が原動力なのでしょうか。
浅川 開発者であり、当事者であるということが大きいと思います。
私は、幼い頃までは目が見えていました。スポーツが大好きで、オリンピックに出場するという夢がありました。
夢を達成するための方法を考えて行動する子どもで、水泳教室に通ったこともありました。
小学校5年生の体育の授業で水泳をしていた時、プールの壁に右目の下を強くぶつけました。それがきっかけとなって、14歳になる頃には、両方の目が完全に見えなくなりました。
目が見えなくなると当然ですが、見えていた時にはできていたことの多くができなくなりました。
例えば、私は読書が好きで、よく図書館に行って本を借りて読んでいました。でも、視力を失った後は、マンガはもちろん、点字になっていない本は読めません。
(写真:Kobus Louw via Getty Images) 
どうしたらいいのか分からないまま、盲学校へ行き、大学では英文学を専攻しました。
就職先を考えたときに、最初は通訳になろうと考えたのですが、通訳は案件に合わせた資料を集めて、事前に頭に入れておくことが重要な仕事だと知りました。
当時、視覚障害者がアクセスできる資料には限りがありました。それを知って通訳を諦めたのです。
その頃、たまたま視覚障害があるコンピュータープログラマーがいることを知り、「自分にもできるかもしれない」と思ったのが、文系の私がIBMの門をたたくきっかけになりました。
IBMへの入社が、私の人生を切り開いたと思っています。