2023/12/23

【名著は語る】今、企業に足りないのは「文化」である

NewsPicks編集部
「企業が生き残るための必須条件は何か」と聞かれて皆さんはどう答えるだろうか?
独自のテクノロジー(技術)、第一想起されるブランド力、あるいは企業活動の根幹である人材と答える人もいるかもしれない。
もちろん答えは1つではないし、その全てが必要だという意見が大半だろう。
しかし、この問いに対し「文化である」と喝破する経営者がいた。資生堂の名経営者・福原義春氏(1931年3月〜2023年8月)だ。
企業にとってこうした文化は、これまではもっぱら、企業風土や歴史的な蓄積としてのみ評価されてきたと思われますが、それだけではなく、これを企業経営のうえで生かすべき「資本」として考えてみようというのが私たちの提案です。
文化という言葉は抽象的で、捉えどころがない。企業経営に文化が必要だと言われても、実態が捉えづらくどうもピンとこない。
それでも、福原は今から20年以上前に、経営の根幹に数字ではなく文化を据え、日本の化粧品文化をグローバルに広めるという実績を残してきた。
ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長や経営学者の入山章栄氏など、福原を尊敬する経営者や学者も多い、知る人ぞ知る名経営者でもある。
この度、NewsPicksは、そんな福原氏の思想が記されながら絶版になっていた名著「文化資本の経営」を復刊させる。
数値化できる結果が評価されがちな資本主義社会において、文化に着目した福原は何を訴えたかったのか。
20年以上前に書かれたとは思えない、古くて新しい本書の「はじめに」部分をお届けする。
私たちは、いま時代は経済資本だけの世界から、文化資本という新たな概念を取り入れるべき時に入っていると考えています。
これまでの経営は「資金」とか「財」とか、物質的な経済資本を中心に考えられ進められてきましたから、文化資本という考え方は、多くの方々にはなじみが薄いかと思います。
しかし、よく考えてみれば、当事者が意識している、していないにかかわらず、どんな経営者も経済資本の力だけで経営を支えてきたわけではなく、それぞれの企業が独自に培ってきた文化が、事業を成立・保持・発展させていくうえで実際的な力を発揮してきたことは無視できないと思います。
ただ、いくら商品や企業自体の文化的な価値が増えても、それが経済価値には簡単に結びつかない、あるいは直接には経済価値に換算しがたいといった事情から、文化資本の動きを無視したり、あるいは自ら抑えたり、ということがなされてきたように思います。
この場合の文化は、もちろん芸術表現や学術・思想に限定されるものではなく、感性や知を蓄積しながら常に生成・発展する生き方といった、広い意味での文化を意味しています。
企業にとってこうした文化は、これまではもっぱら、企業風土や歴史的な蓄積としてのみ評価されてきたと思われますが、それだけではなく、これを企業経営のうえで生かすべき「資本」として考えてみようというのが私たちの提案です。
このように考えてくると、「そもそも資本とは何か」という問題にぶつかりますが、それをひとくちでいうことはそう簡単ではありません。
ただ、資本活動とは資金や財などの物質的な経済活動という面に限られるものではなく、人間にとっての魅力的な価値を外部に生み出していく総合活動だという面からとらえることが、きわめて重要です。
「資本」は英語の「キャピタル(capital)」の訳語ですが、キャピタルは「主要な、首位の、基本の、元の、本格的な、正真正銘の、すばらしい、見事な」といった意味の言葉です。
そのように考えると、キャピタル=資本とは、既成の経済概念の枠組みで考えられているよりも、はるかに広い領域にわたる多様な働きをもつものとしてとらえる必要があるでしょう。
そうした資本本来の働きを広く解き放ってやることで、その活動をより活性化させていくことを可能にするのが、文化資本経営なのです。
いま、世界的に経済資本のパワーが落ちてきています。
経済資本さえ充実していれば、いくらでも新しいことができる、すばらしい事業をさらに伸ばしていくことができる、という時代は確かにありました。
が、いまやそういう企業でも経営危機に陥り、倒産するところすら出てきています。
その逆に、ベンチャービジネスの分野などでは、極端にいえば経済資本がゼロでも、これまで培ってきた体験やアイデア・技術を文化資本化することによって経済資本を動かし、事業として成功し伸びてきた新しいタイプの企業が出現しています。
日本経済が大きく揺らいでいますが、そこでも、しっかりと文化資本や技術力を蓄積し、生かしていくことを怠りなくやってきた企業とそうではない企業との間には、しだいに大きな違いが出てくるようになっています。
たとえば、ピーター・F・ドラッカーは、『明日を支配するもの』(ダイヤモンド社刊)のなかで、管理の力とか賃金の魅力や能力競争によって社員を働かせる企業の時代はすでに終わった、これからは社員が自らの自由な意志で喜びをもって働いていこうとする、より文化的な企業環境を生み出せる企業が伸びていく時代だ、ということをいっています。
経営の神様と呼ばれたドラッカー(写真:George Rose /Gettyimages)
いいかえれば、彼がいっているのは、これからの企業が考えていかなくてはならないことは、経済的な合理性や効率主義の追求だけではなく、はっきりとした社会ビジョンをもって文化を生み出していこうとする人々の創造的なパワーをどう生かしたらいいか、という新しい経営のあり方だということです。
このように、いい方はさまざまであっても、文化資本経営の重要性がいろいろと主張される時代に入っていることは確かなことだと思います。
その意味からも、この大不況という苦境を乗り越えるためには、経済資本経営の力もさることながら文化資本経営の力がいっそう重要になってきているのです。
経済的な生産の観点から見ますと、明治以降の日本が参入した近代世界がまず第一にやったことは、生産というシステムを独自につくっていくことでした。
これが第一段階です。
第二段階では、それを大量生産のシステムとして社会的に機能させることをやってきました。
そして第三段階では、それをさらに効率的、合理的に展開してきたわけですが、このシステムがいま行き着くところまできて、根本的に変わろうとしています。
あるいは変容しようとしている段階に入っているのだと思います。
その第三段階の、徹底的な経済合理主義に基づいた生産が地球規模に拡大したことが、人々の経済生活をそれなりに向上させながらも、世界全域に深刻な公害や環境破壊をもたらす結果を招いているのはいうまでもありません。
経済行動が自然環境や生活環境に優先して動き、それらの建設のためにではなく、逆に破壊する働きを大きく示すようになってしまったのです。
さらに、投資効率もコンピュータを利用した複雑系理論まで導入することにより究極まで突き詰められていった結果、同様の限界にぶつかっています。
もはや、本当に資金が必要なところに資金がまわるのではなく、通貨情報はわずかな利益獲得だけをめざして、世界の金融市場を一分、一秒単位の猛スピードで動きまわることになり、諸国の政府はもちろんのこと、どんな国際機関もその複雑で加速された動きをコントロールできない状態が生まれてしまっています。
(写真:Yuichiro Chino/Gettyimages)
しかも世界の金融取引額は、実物取引額の数十倍の規模にまで膨れあがっていますから、世界経済は金融の投機的な動きに大きく左右されることになり、先行きを見通すことがほとんどできない状態にまで陥っています。
そうした世界経済にもたらされている現在の暗雲は、たとえば、1998年10月に起きた世界最大級のヘッジファンド・LTCM(ロングタームキャピタルマネジメント)の破綻に対して、アメリカのFRB(米連邦準備制度理事会)が音頭を取り、ニューヨーク連邦銀行が中心となって、欧米の巨大銀行十数行に資金を出させて救ったという、まさに前代未聞の出来事が、象徴的に物語っているといえましょう。
いうまでもなく、LTCMは銀行ではありません。LTCMは世界中の銀行や企業や個人から任意にお金を集めてそれを運用する、いわば投資請負業なのです。
しかもその投資対象は、日々変動する世界の通貨・証券・商品・金利などの相場と複雑にからみ合った「金融商品」ですから、その性格は不確実な利益をあて込んでの投機的行為にきわめて近いものです。
(写真:Fabrice Cabaud/Gettyimages)
直に社会的な意義をもった事業へ投資したり、将来有望な産業や企業へ投資するといった性格のものではまったくありません。
その意味では、LTCMなどのいわゆるヘッジファンドは大きなリスクで大きな利益を狙う投機的行動ともいってよいでしょう。
いずれにしてもLTCMは私的な投資機関ですから、本来ならば救済する必要はまったくありません。
ところが、救わなければ世界恐慌にまで発展するという実際的な状況が、いまの世界経済には発生しているのです。
もしLTCMの破綻をそのまま放っておいたとしたら、おそらくヨーロッパの株式市場が大暴落して壊滅したはずです。
そして、その大禍は日本やアメリカに波及し、間違いなく史上最大規模の世界恐慌へと発展したことでしょう。
第三段階の経済的な生産の延長上に世界の未来を描きにくくなってしまったことは、いまや誰もが認めざるをえません。世界はそういう時代に入ってしまったのです。
いったいどういうわけで、こんなことになってしまったのでしょうか。
これまでの流れのなかで近代に行われてきたのは、経済を自然や社会から分離し、経済を経済として自由に機能するようにしてきたことです。
分離して自由になっていくことをエネルギーとして、経済は物質的発展へ向かう推進力をもつことができたのですが、その推進力を消耗して、行き着くところまできた時、経済がエネルギーをなくしてしまったのが現在だといえます。
そこで大切なことは、経済が自然や社会から分離してきたこと自体がパワーになっていったのではなく、分離していく過程そのものが力だったということです。
しかし、多くの事業家や経営者たちがそこを見誤ってきました。
「経済は経済として、純粋に利益を追求していけばうまくいく」と考えてきた人たちが多かったのですが、ようやく、必ずしもそれだけではないことが、目に見えてはっきりするようになってきました。
それがいま、未曾有の大不況といわれる事態、生活者にお金があるのにモノが売れないという事態、絶対潰れるはずがないといっていた金融機関や会社が崩壊するといった事態などとして表われていることなのです。
(写真: Chris Hondros/Gettyimages)
これから我々がしていかなくてはならないことは、自然や社会から分離してここまできて限界にぶつかり停滞をはじめた経済を、今度は逆に自然や社会との一体化の方向へと動かすことで引きあげていくことです。
これを別な言葉でいえば、分離の行き着いた果てに自己破壊的な作用すら含んでしまった経済の時代から、経済が人間や他の生命にとってよりよい自然や社会を再構成し、建設していくという新しいステージに入ったということです。
そして、この建設を引っ張っていくことができるのは、経済資本の力よりも、文化資本の力によらなければならないでしょう。
たとえば、生活用品や住宅などの商品はこれまで、自然や社会から分離して自由になることで経済として成り立っていました。
しかし、そうした分離が行き着くところまでいってしまったこれからの時代の生活用品や住宅にとってのテーマは、自然環境や社会環境と生活用品や住宅との非分離な空間をどうつくりあげていくか、にあります。
(写真: Sean Gallup/Gettyimages)
具体的には、生活用品や住宅を取り巻く生活空間、街並み空間、都市空間との非分離の状態をいかにデザインしていくか、ということになります。
これらの設計を牽引することができる力こそ、文化資本なのです。
たとえば、銀座という街はかつては掘割が縦横に走る水の街でしたが、しだいに商業空間と水との分離を強めていき、ついには完全に埋め立てて高架の高速道路を走らせるようになりました。
それに対していま銀座では、分離した水の側から現在の銀座を眺めてみるところから、新しい銀座の街づくりを構想しはじめています。
もはや、それ自体で魅力をもった商業都市や商品が成り立った時代は終わり、豊かな広がりをもった非分離の空間づくりとともにそれが構想・開発されていく時代に入っています。
そのように、自然や社会との非分離を設計していこうとする新しい経済の動きが、あちこちに見えはじめてきました。
こうした非分離の空間づくりへと経済が向かうことが、これからの経済の新しいエネルギーになってきます。
もはや、商品を中心に企業経営を考えていく時代は終わったということです。
すでにそのことに気づいた企業では、商品中心から資本中心へ、そして経済資本中心から文化資本中心へという転換が、真剣に検討されるようになってきた、といってよいでしょう。
経済が自然や社会からしだいに遊離し、かつ分離していくことによって、地域の歴史性や文化性の組み込まれた具体的な場所、つまり非分離の空間が無視され、全国的な画一市場という抽象的な場所で商品が売られてきたのが、これまでの経済のあり方でした。
しかし、いまや地球規模のビジョンをもつことと同時に、各地域それぞれの具体的な場所に基づいたビジョンをもつことが重要になってきたのです。
全国的な国民市場から世界市場へ出ていくという時代は終わり、これからは具体的な個々の場所の市場から世界へ、地球規模の市場へ出ていくことが大切になってきます。
自然や社会から経済を分離したということは、現実世界から経済を分離して経済を主語にした、ということができます。
商品もまた同じように主語として分離され、個別化されてきたわけです。
(写真: Fotógrafo de plantilla/Gettyimages)
そこでは、あらゆる物事は、現実世界から主語として取り出され、個別化されることによってはじめて物事として扱われてきました。
しかしながら、これからの非分離の空間づくりへ向かおうとする時代では、主語化されないもの、主語として対象から分離されないもの、つまり述語的な非分離の状態をしっかりとらえていくことが重要になってきます。
たとえば、夏目漱石の『草枕』には、次の有名な一文のように、主語のない文章がたくさん出てきます。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくにこの世は住みにくい」
こういう主語のない述語的な表現は、単に主語を省略した表現ではなく、日本語の大きな特徴として、いまなお盛んに用いられているものです。
「……とかくにこの世は住みにくい」とは、主人公がそう考えるのか、作者がそう考えるのか、賢人がそう考えるのか、一般人がそう考えるのか、いろいろな主語で同時に考えられています。
こうした述語的な表現によって、多様な主語、多様な主体というものを表現することができています。
そうした世界の総合的なあり方を表現することが、主語を分離して立てないがゆえに可能になっているのです。
文化資本の働きは、こうした具体的かつ総合的な非分離の空間をつくっていく点で、日本語などに特有な述語的な表現、あるいは述語的な知識の働きと共通するものがあります。
私たちはこれは大変重要なポイントだと考えています。
文化資本がいまだ十分に生かしきれていない企業は多いことと思います。さらには、自社の文化資本の所在を明確に認識できていない企業もあることでしょう。
そうした企業はそのままであれば、独自性や魅力を失うことになるでしょう。消費者が離れていきますし、社員も離れていきます。
それでは、どうしたらいいのか。どのように文化資本経営のシステムを整えていけばよいのか。
その基本的な要点を、さまざまな事例とともに考えていこうというのが本書の趣旨です。
新しい時代へ向けての企業経営の転換を、これからのビジネスのあり方の展望を、真剣に考えておられる多くの方々に、ぜひとも最後まで読み進んでいただきたいと思います。
福原義春(ふくはら・よしはる)
1931年東京生まれ。慶應義塾大学卒業後、資生堂に入社。商品開発部長、専務取締役などを歴任後、1987年に代表取締役社長に就任。大胆な経営改革でグローバル化を牽引した。1997年に取締役会長、2001年に名誉会長に就任。2023年8月、92歳で逝去。