ユナイテッドアローズの源泉は幼少期に見たアメリカ

2015/2/14

メイド・イン・U.S.A.の魅力

2歳の頃の重松氏。
白いフェンスの向こうには、こちら側とはまったく違う世界が広がっている。それを知ったのは、私が10歳の頃。1959年のことだった。
私が生まれた神奈川県逗子市は、当時「横須賀市逗子」と呼ばれていた。白いフェンスの向こう側には米軍の居留区があり、米兵とその家族が生活をしていた。
一方、フェンスのこちら側は戦後復興を果たしたばかりで、高度成長期を迎える前の日本の生活が広がっていた。今上天皇である皇太子殿下と正田美智子さんとのご成婚に沸き、ようやく白黒テレビが普及し始めた頃の話である。
私が10歳のとき、8歳年上の姉が米軍の将校のお宅でベビーシッターのアルバイトを始め、その縁で私も白いフェンスの中に招待された。
彼らの家のガレージには大きなアメリカ車が収まり、青い芝生の上には芝刈り機が置いてあった。家の中には、洗濯機や冷蔵庫、食器洗い機までもがそろっていた。
アメリカがベトナム戦争に突入する前、豊かさにあふれ、何もかもがキラキラと輝いていたアメリカの生活や文化が、そこには広がっていた。
やがて姉は、パンアメリカン航空のキャビンアテンダントになってアメリカに住み、高校生になった私にアメリカの洋服を送ってくれた。
アメリカのホームドラマに出てくる世界感そのままの、メイド・イン・U.S.A.の服。日本ナイズされていない、サイズも着心地も日本のものとは全く違うアメリカの服。
私は、アメリカの服の魅力に溺れていった。
明治学院大学に進学した私は、学園紛争のまっただ中で授業どころではないのを良いことに、学校にはほとんど行かず、アルバイトに精を出した。そのお金を手に横須賀やアメ横の洋品店に出向いては、輸入物の服を買いあさった。その後爆発的に流行したロンドンブーツに長髪、ベルボトムのパンツも、すべてリアルタイムに経験した。

アパレルで学んだ商売の本質

大学を卒業するにあたり、私はアパレル業界一本に絞って就職活動を行った。オンワード樫山、鈴屋、ワールド。当時、メンズファッションを扱っていた大手アパレルや専門店はすべて受けたが、一社からも内定をもらうことはできなかった。
1973年、最終的に入社できたのは、婦人服メーカーとして中堅どころだったダック。私は営業として、鈴屋の担当になった。
当時鈴屋は、ファッション専門店として日本のカジュアルファッションをリードする存在だった。1976年には東京の青山に青山ベルコモンズというファッションビルを開業し、20〜30代の女性を対象にした『SUZUYA』というブランドを展開。ちなみに、鈴屋出身者としては、『コムサ・デ・モード(COMME ÇA DU MODE)』を展開している株式会社ファイブフォックスを創業した上田稔夫氏や、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社を創業した増田宗昭氏などが名を連ねている。
ダックの営業として鈴屋と接した経験により、私は”お客様本位”という姿勢を学んだ。とはいえ、私たちアパレルメーカーの営業は、直接お客様に商品を販売するわけではない。
今、何が売れている、次は何が売れそうだという部分をはっきりと把握しているのは、お客様と日常的に接している販売員だ。販売員からお客様の情報を聞き、お客様の要望を商品化して提供すれば、お客様に喜んでいただき、おのずと売り上げも上がっていく。つまり、アパレルが次の売れ筋をつくるためには、お客様情報に精通している優秀な販売員たちとのコミュニケーションが大切だということを知ることができた。
私は、入社2年目ごろから鈴屋などの販売店にアプローチをかけ、いわゆる“別注”を取ってきて会社に生地やデザインをお願いし、その販売店限定の商品を作る営業企画的な仕事もこなすようになってきた。
そうこうしていくうちに、私は自分もお客様と直接接する小売りをやってみたいという気持ちを抑えることができなくなってきた。
クリエイティビティとビジネスという2つの要素のバランスをどうやって取っていくか?
営業経験を経た私は、その難しさは重々承知していた。しかし、実際に自分の手で本当に売りたいものを手掛けたい、そしてなにより、メンズファッションにも関わってみたいという気持ちが膨らんできたのだった。

日本のファッションとライフスタイルを変えたい

当時私は、中学校の1年上の先輩で『平凡パンチ』のファッションページを担当していた土橋昭紳氏に、仕事の愚痴を聞いてもらっていた。
「自分の納得のいく商品を、お客様に直接提案したいんだ」
そんなことばかり言っていたある日、土橋さんから紹介したい人がいるという話を持ち掛けられた。
その人は段ボールパッケージの製造会社を経営していて、オイルショック後の構造不況のただなかで先行きに不安を抱いている。ついては、何か付加価値の高いビジネスを始めたいということらしい。
私はさっそくその人に会いに行き、「日本のファッションとライフスタイルを変えたい」という思いを伝えた。そして、土橋氏と温めていた「アメリカの衣料品や雑貨などを通じてアメリカの生活文化を日本に紹介する“アメリカン・ライフ・ショップ”」という事業プランを披歴した。
当時はヨーロッパのブランド物を輸入販売する小売業が、少しずつ銀座の並木通り沿いに建ち始めた時代だった。ただし、それらはあまりにもフォーマルで手の届きにくい存在であり、若者の気持ちに寄り添うものではなかった。
「もっとカジュアルで、おしゃれなものを提案していきたい」
そう考えた私が思いをぶつけた相手こそ、のちのビームス創業者、設楽悦三氏だった。
 
(聞き手:佐藤留美、構成:朝倉真弓、撮影:竹井俊晴)
・参考文献: 『UAの信念 すべてはお客様のために』(ユナイテッドアローズ編著・日経事業出版センター)