[YF]世界を翔ける_150213_ポーランド

「そこにある危機」を懸念する周辺諸国

ポーランド:ウクライナ情勢泥沼化で高まるロシアとの確執

2015/2/13
ウクライナの戦乱は依然、出口が見えない。ドイツ、フランスなど仲介役の国々が外交努力の結果、新たな停戦合意を実現させたが、先行きは不透明だ。ここに、プーチン大統領を「領土拡大主義者」と警戒するポーランドが加わり、事態は複雑化、深刻化している。今年1月のアウシュビッツでの式典には、「解放者」たるロシア大統領が欠席した。記者は、深まる一方の両国の確執を懸念する。
アウシュビッツのビルケナウ強制収容所跡=2005年1月29日、会川晴之撮影

アウシュビッツのビルケナウ強制収容所跡=2005年1月29日、会川晴之撮影

のぞくロシアへの優越感

昨年4月の戦闘開始以来、民間人を含む死者が5300人を超すなど、ウクライナの戦乱が泥沼化している。ロシアとウクライナ、仲介役の独仏両国の4カ国は、昨年9月の停戦合意(ミンスク協定)に実効性を持たせようと外交努力を続け、12日に新たな停戦合意に達したが、依然、出口は見えない。こうした中、ポーランドとロシアが激しいつばぜり合いを続けている。長らくロシアの支配下に置かれたポーランドは、プーチン大統領を「領土拡大主義者」と見て強く警戒。クリミア併合でさらに恐怖感が深まり、過激とも言える応酬を続けている。

ポーランドは、1990年に民主化を果たし、1999年には北大西洋条約機構(NATO)、2004年には欧州連合(EU)に加盟した。昨年12月にトゥスク前首相が2代目のEU大統領に就任、欧州で地歩を固めつつある。とはいえ、大国ロシアとの実力差は大きい。

そんなポーランド人が好んで口にする話題がある。ロシアが2005年に制定した事実上の独立記念日とも言える「民族統一の日」に関する話だ。記念日の11月4日は、17世紀初頭、当時、中東欧で最大の版図を誇っていたポーランド・リトアニア共和国がモスクワから撤退した日に当たる。ヒトラーすらなし得なかったモスクワ占領を、かつてのポーランドが果たした、という甘い記憶を呼び覚ますだけでなく、あえて、その日を記念日に選んだロシアへの優越感にも浸ることができるからだ。

モスクワから撤退後、ポーランド・リトアニア共和国は次第に没落、18世紀末にはオーストリア、プロイセン、ロシアに3分割された。第1次世界大戦後に123年ぶりに独立を回復したのもつかの間、第2次世界大戦で再びドイツとソ連に占領され、戦後も長くソ連の影響下に置かれた。

こうした経緯もありポーランドは、同様の歴史を持つリトアニアなどバルト3国とともに、本能的にロシアを強く警戒する。独仏など、ロシアから遠く離れた西欧諸国とは違い、国境が間近にあるこれらの諸国にとって、ロシアは、まさに「そこにある危機」。戦乱が拡大し、ウクライナがロシアの支配下に置かれる事態は悪夢に近い。

ポーランドは昨年2月の政変だけでなく、大統領選の不正選挙をめぐり2004年11月のオレンジ革命でもウクライナの民主派を支援した。特に、当時のクワシニエフスキ大統領は積極的に関与、今回も足しげくウクライナに通い続けた。クワシニエフスキ氏は、ブッシュ米大統領が主導したイラク戦争に参戦を決めた人物。勢いを増す親ロシア派武装勢力に対抗するため、政府軍への武器供与を提唱する米国の保守勢力ともつながりが深い。

ポーランドがウクライナ民主派を支援する理由

クワシニエフスキ大統領の補佐官(ロシア・ウクライナ担当)に、ウクライナの民主派支援する理由を聞いたことがある。彼は「わが国にとって、安全保障上の最重要課題は、ウクライナをEU、NATOに加盟させること」と話した。「二度とロシアと国境を接する関係には戻りたくない」とも述べ、ロシアとの緩衝地帯となる「親欧米のウクライナがどうしても必要」と力説した。

それだけに、昨年2月の政変に端を発したウクライナ戦乱は、ポーランドを揺さぶった。第2次世界大戦の開戦から75年にあたる昨年9月1日、ポーランドを代表する文化人20人が連名で「ダンチヒ(現グダニスク)からドネツクへ」と名付けた共同声明を発表。ダンチヒは、ドイツ軍の侵攻が始まった場所であり、ドネツクは、戦乱が続く東ウクライナの中心都市だ。ポーランド人は、英仏両国の「無関心」がドイツ軍によるダンチヒ侵攻を招いたと見ている。ドネツクはいま、ダンチヒと同じ境遇にある。「見捨てることなく、きちんと救おう」。声明には、そんなメッセージが込められている。

自主管理労組「連帯」のワレサ元議長も「(ロシアの脅威に対抗するため)ポーランドは、借り入れてでも核武装を」と発言、ロシア批判を始めた。私は2度のインタビューをはじめ、何度か元議長に話を聞く機会を得たが、彼は、思慮深い政治家というより、運動家という表現がぴったりくる人だ。本気で核武装を目指す意図はなく、その数日前にプーチン大統領が「ロシアは最も強力な核保有国のひとつ。これは現実だ」と述べたことを「脅し」と捉え、直感的に反論したのではないかと私は見ている。

「強制収容所の門を開いたのはウクライナ兵だった」

ロシア批判は、今年に入っても続いた。1月27日、旧ソ連軍による解放から70周年にあたる日に、ポーランド南部のオシフィエンチムにあるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡で式典が開かれることになっていた。だが、10年前には参加したプーチン露大統領は、欠席を決める。それに怒ったポーランドのシヘティナ外相は「強制収容所の門を開いたのはウクライナ兵だった」と1月21日に発言、さらに2日後には「最初に到着した戦車はウクライナ人が指揮していた」と挑発を繰り返した。

当時のソ連軍(赤軍)には、ロシア兵だけでなくソ連邦を構成していたウクライナ兵やカザフスタン兵なども加わっている。とはいえ、外相発言は史実を曲解した面は否めない。当然のように、ロシア政府は強く反発、「歴史を愚弄(ぐろう)するのはやめるべきだ」と批判声明を出した。

私は10年前、60周年式典を現地で取材した。欧州各地からユダヤ人らを輸送した鉄道の引き込み線があるビルケナウ強制収容所跡が会場だった。午後3時前に始まった式典は、冒頭に旧ソ連軍が収容所を解放する記録映像とともに、解放の状況を語る旧ソ連兵のビデオメッセージも流れた。当日は凍えるほど寒く、小雪も舞っていた。屋外で1000人を超す高齢の元収容者や家族、プーチン大統領など40カ国以上の首脳たちが長時間、寒さをこらえていたのが印象に残る厳粛な式典だった。

プーチン大統領が「解放の立役者」として振る舞える機会を振ってまで、不参加を選択した理由について、ロシア政府は「招待状を受け取っていない」と説明している。だが、現地の報道によると、式典を主催したアウシュビッツ博物館は、各国に「招待状」ではなく「案内状」を届けていると言われ、ロシアの主張は、いささか言いがかり的な側面が強そうだ。バルト3国とともに、ウクライナのNATO加盟を強く後押しするポーランドへの意趣返しを含め、両国の確執が深まっている証拠だろう。

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