2023/3/23

【DX先駆け】交通系ICカードが電子マネーで「成功」した理由

NewsPicks for Kids編集長/NewsPicks Studios
SuicaやPASMOなど、交通系ICカード1枚で電車やバスを乗り継いだり、買い物をすることは、もはや私たちの日常だ。便利だと意識することすらないほど、生活にあって当たり前の存在になっている。
現在、主な交通系ICカードは、東日本旅客鉄道株式会社(以下、JR東日本)が発行する交通系ICカード「Suica」をはじめとして全国10社のカードが存在する。
今年2023年、これらが相互利用(​​各エリア内における鉄道・バスおよび買い物等の利用が、いずれかのカードを持っていれば可能となるサービス)できるようになって10周年を迎えた。
「DX」という言葉を耳にすることもなかったような時代から、JR東日本をはじめとする鉄道各社は、顧客の利便性を第一に考えて決済のデジタル化を実現してきた。そして、大企業同士の連携という難しいハードルを越え続けてきたのだ。
その思いと奮闘の歴史を、JR東日本 マーケティング本部 戦略・プラットフォーム部門 決済・認証ユニット次長(電子マネー・認証)の田口暁氏に聞いた。
鉄道各社は、極めて難易度が高い「DXにおける他社との共創」をどう実現してきたのだろうか。その歩みから、今後のイノベーションに求められる発想のヒントを探る。

相互利用は「大前提」

Suicaが首都圏エリアで導入されたのは2001年。今から20年以上の前のことだ。
端末にかざすだけで決済でき、チャージすれば繰り返し使えるので環境にもやさしい。さらに、切符と異なり紛失しても再発行ができる。Suicaは、いくつもの利便性をもたらした。
そして、PASMOやICOCAなど、相互利用できる交通系ICカードを少しずつ増やしていき、全国10社で相互利用が実現したのは、今から10年前の2013年だった。
JRの改札にSuicaで入場し、私鉄に乗り換えて、Suicaで出場する。
今では当たり前となった1枚の交通系ICカードでの「他線乗り換え」も、ほんの十数年前まではできなかった。他線に乗ろうとするたびに、紙の切符を買わなければならなかったのだ。これが乗客のストレスになっていた。
(写真:woojpn / iStock)
「なぜSuicaで他線に乗れないのかと、お客様からご不満をいただくことも多かった」(田口氏)という。
特に東京都心部ではJRと私鉄各線が複雑に乗り入れていたため、Suicaで私鉄が利用できないことには、多くの乗客が不便を感じていた。そのため、PASMOは当初からSuicaとの相互利用機能を大前提として導入が進められた。
こうした新規サービスは、最低限の機能でリリースし、運用が落ち着いてから相互連携できるようにするという考えもある。
しかし「他線でICカードが導入されたら、相互利用できるようにしなければ、お客様からは決して受け入れられないとの強い思いがあった」(田口氏)という。
大手鉄道各社は長い歴史をもち、組織が大きいがゆえに他社連携のハードルが高い。運賃ルールなども各社で異なる。交通系ICカードを相互利用させれば、毎月、何億回という乗車分の精算を会社間で行わなければならない。
さらに、ICカードを自動改札機にタッチしてから通過するまでの時間は0.2秒以内という制約もあり、相互利用を実現させるには、システムやインフラ面で数々の難しさがある。
(写真:chachamal / iStock)
それでも、JR東日本をはじめとする全国の大手鉄道各社は、ユーザーの利便性を損なわないために「相互利用はマスト」との認識で一致していた。
「相互利用が実現できるか、できないか」ではなく、「どう実現させるか」だけを考え続け、月に何回も、全国の鉄道業者が集まって議論を重ねていたそうだ。
今と違ってオンライン会議が当たり前ではない時代。当時のプロジェクト担当者たちは、通常業務の合間をぬって、新幹線や飛行機で全国を飛び回る日々が続いた。
「当時の担当者の苦労と信念には、頭が下がる思いです」と、田口氏は語る。

サービスレベルをどこまで合わせるか

このように、ユーザーの利便性を担保する上で、1枚の交通系ICカードで他線乗り換えができることは必須だった。また、他地域でも電子マネーで買い物ができることも、相互利用には欠かせない。
その上で決めなければならないことは、乗車時の割引ルール、会社間の精算方法の策定、電子マネーの利用範囲、ポイント付与の有無など多岐にわたった。
相互利用の難しさのひとつとして、これらのサービスレベルを決めることが挙げられる。田口氏によると、その際に意識したのは、相互利用させる機能と、そうでない機能のすみ分けだという。
例えば、各社で提供しているポイント(JR東日本であれば「JRE POINT」)は、他社利用時には付与されないのだ。ポイントの相互利用は不要だと判断したのはなぜか。
「ポイントは、各社が投資をしてさまざまな施策を行い、自社のサービスを多くご利用いただいた方に価値を還元するためのもの。
そこまで相互利用すると、協業相手であるはずの他鉄道会社の顧客を囲い込もうとするようなエゴが出てきてしまうからです」(田口氏)
こうして、相互利用させるべきことと、させないことのすみ分けを全国で合意できたのは、「ユーザーの鉄道利用や買い物における利便性を損なわないこと」という目的意識を共有していたからに他ならないのではないだろうか。
今は「DX」という言葉が独り歩きしがちだが、デジタル化はあくまで手段だ。
徹底した顧客視点で「どのような価値を実現するのか」という目的を考え抜かなければDXの成功はないことを、私たちは交通系ICカードの相互連携から改めて学ぶことができる。

「使いやすさ」が普及のカギ

初めて使った、あるいは日常使いしている電子マネーは交通系ICカードだった、という人も少なくないだろう。
Suicaに電子マネー機能が付いたのは、2004年のことだ。利用可能な店舗は駅構内の売店や駅ビルからはじまり、コンビニエンスストアやスーパーマーケットなどに広がっていった。
消費行動のデジタル化が今ほど進んでいない2000年代前半にもかかわらず、電子マネーとしても消費者に受け入れられ、普及した理由を、田口氏は「そもそも、交通系ICカードを移動のツールとして保有している方が多かったためではないか」と分析する。
「鉄道を利用されるお客様から、電子マネーとしての利用も広まっていきました。
また、多くの方が自動改札機をスムーズに通れるように、バッグの外側のポケットなどに交通系ICカードを入れていますよね。
その点でも、買い物の時にサッと取り出しやすく、使っていただきやすかったのだと捉えています」(田口氏)
(写真:recep-bg / iStock)
こうして、交通系ICカードは電子マネーとしても急速に浸透していった。その様子を目の当たりにした小売業者から、「当店にも導入したい」と話をもらうことも出てきたという。
その結果、小売店のみならず、自動販売機やタクシーで使えることも日常となった。
最近ではネット決済や郵便局、宝くじ売場、ガソリンスタンドなどでも利用できるところも多い。コロナ禍以降はキャッシュレス決済のニーズが高まり、交通系電子マネーでの決済可能店舗はさらに増えている。
また、スマートフォンの普及にともない「モバイルSuica」の利用者も拡大していった。
「もともと、スマートフォンのカバーに交通系ICカードを入れてタッチする使い方をされるお客様が多く、モバイル化のニーズはあったのだと思う」と田口氏は語る。
モバイルSuicaはどこでもチャージ可能で、定期券を買う際も駅の窓口まで行く必要がなく、スマートフォンで購入できる利点がある。
こうして電子マネーの普及は進み、2022年7月1日には、交通系電子マネーの1日あたり利用件数が1000万件を突破。
2023年2月時点で、交通系ICカードの全国累計発行枚数は2億枚を超え、全国160万を超える店舗で交通系電子マネーが利用可能となっている。
Suicaをはじめとする交通系ICカードは、ますます日本人の生活に欠かせない存在となっているのだ。

使命はあくまで「安全な定時運行」

ここまでの交通系ICカード事業は大成功と言っていいように思うが、鉄道会社にとっては、あくまで「付随サービス」であるという。
「お客様にここまで交通系ICカードが受け入れられたのは、鉄道の安全安定輸送への信頼があればこそ。『あの会社になら、お金を預けてもいい』と思っていただけるから、チャージして、お買い物にもご利用いただいている。それを決して忘れてはならない」
田口氏は常々、社員に対してこう伝えているという。鉄道会社にとって最重要となる使命とは、きれいに清掃された列車を乗務員が定時で運行し、ユーザーを安全に目的地まで運ぶことなのだ。
(写真:winhorse / iStock)
この意識は、社員一人一人に浸透しているという。鉄道会社など生活インフラ事業で働く人には、社会や多くの人に貢献したいという意志が強いことも、交通系ICカードが電子マネーとしても普及する土台となったのだろう。
日々、定時運行がなされ、世界最高峰のサービスレベルと称される日本の鉄道輸送。そのインフラを支える人たちの強い使命感によって、交通系ICカードの利便性ももたらされているのだ。

“Win-Win-Win”で価値を生む

巨大組織であり、かつては国営企業であったJRが、なぜ新しいチャレンジをスピーディーに実現できたのか?と田口氏に聞くと、謙虚とも思える答えが返ってきた。
「スピーディーだったかどうかは、我々ではなく、歴史が判断することだと思います。当社や鉄道各社の皆さんは、お客様が求めていることを一番に考え、相互利用のサービスを拡大してきました。
お客様を第一に考える際は、現在だけではなく未来の視点も必要です。これからも、お客様が真に望まれることは何か?と考え抜く姿勢が大切だと考えています。
その際、当社だけがエゴを出してはダメなんです。提携する他社路線や小売店の皆さんまでも含めて“Win-Win-Win”の関係にならなければ、お客様に利便性をお届けできないですし、結果もついてこないと思っています」(田口氏)
今後の展望は、ユーザーの乗車データや電子マネーの利用データを、マーケティングに利活用していくことだ。
一人一人の行動パターンに沿って、さまざまな手段により有益な情報を提供することなどを通じて、鉄道・電子マネーをより便利に使ってもらえたらと考えているそうだ。
また、交通系ICカードが使えない地域もまだあり、順次エリアを拡大していく。田口氏がかつて赴任していた秋田県でも未導入で、お客様から「秋田でも鉄道でSuicaを使いたい」との声が多く寄せられたという。
その秋田県を含む北東北エリアでも、一部地域で2023年5月からSuicaの鉄道での利用がいよいよスタートする。
より多くの人が交通系ICカードで乗車やお買い物ができるようになることで、「皆さんの暮らしの真ん中に、交通系ICカードがあるように努力していきたい」と田口氏は未来像を語る。
それぞれが徹底した「ユーザー第一主義」をぶれることなく貫いてきたからこそ、今日に至る「生活者の当たり前」を作り上げることに成功した鉄道各社。
その相互連携の歩みから、今ビジネスで不可欠とされる「共創」の要諦を、私たちは学ぶことができるはずだ。