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この文章は自分で書いたものだろうか?

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コメント


注目のコメント

  • 外資系ITメーカー

    >「この文章は自分で書いたものだろうか?」
    タイトル、冒頭から惹き込まれるように見入りました。

    ここまでの問いを自身に投げかけることはありませんでしたが、スマホやパソコンで文字を打つときよりも、紙とペンで文章を作成する時の方が明らかにスピードは遅いなと読みながら考えさせられました。

    他者に読ませる文章として、質とスピードを考えるとするとデジタル上での作成が便利(予測変換や誤字脱字の指摘、ネット検索の活用など)ですが、はたして本当に伝えたいものが言語化されているのか…
    はたまた便利なツールの活用が、自分が想定していたもの以上の表現を可能としているのか…とても考えさせられる記事でした。


  • 保険会社(フランス) Data engineer team leader・道産子

    幾つかの論点を含む考えさせられる記事です。

    仮に思考とその伝達を綺麗に切り分ける事が可能で、文章を書くという行為が後者なのであれば、特に事務事務したレポート等では正確に情報伝達さえ出来れば「自分の文章」でなくとも問題はないはずです。

    ただ厄介なのは、現実には書くという行為は概ね思考することも含んでいる点です。このコメントも書き起こしている中で新たな気づきがあって書き直しています。例えばそういう話です。

    記事で言及されている特定のキーワードに対して検索される画像内の人種が偏る問題、これは筆者の方も意識して書いていると思うのですが、現実に情報科学の分野ではdigital discriminationの一つとして議論されています。

    同様に大量の文章から構築されたモデルに基づく予測変換などにしても、そのモデルが偏りを含む場合、それに支援された書くという行為の最中の思考も偏りの影響を受ける懸念は当然認識されるべきでしょう。支援機能が局所的な文法チェックや予測変換からGrammalyのように広い範囲の文章に跨がった校正など高次の機能に発展するにつれてより現実の問題になってくると思います。

    あるいは思考実験として、国民の言論を制御したい権威主義国家であれば、例えば文書校正サービスをその目的に用いる事は当然考えると思います。

    ただ他方で「自分の文章」とは何かというそもそも論も。「自分の文書」は概ね過去に読んだ文章の蓄積の上に構築されているはずです。例えば自分の文書のお手本の一つは養老孟司先生のそれ(真面目なのに何故か時々可笑しい理系文章)で、文章を書くという身体的行為と思考の不可分性も養老先生の昔の著作の何処かに書かれていたような気がします。

    そう考えると、過去の文章の蓄積に乗っかって今文章を書くという文脈では、予測変換云々も道具が変わっただけで昔から変わらぬ懸念なのかもしれません。ただ文章の集合がモデルとして集約されるなど問題の構造が見えにくくなっているので改めて意識する必要はあるのでしょう。


  • 東京大学 工学部

    そうか、だから大学の期末試験では90分もかけて記述問題をひとつ解くような、生徒からしたらめちゃくちゃに嫌な試験がなくならないのだろうか。
    いや、もしそれが残っているのが、デジタル媒体を使ったときのカンニングチェックができないから、なのであれば、今後の試験体制が変わっていく際に忘れてはいけない論点として立ち現れてきそうだ。


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