2022/8/2

【秘話】世界標準のカキづくりを追求。そして島に行き着いた

フリーランス記者
東京のど真ん中に、カキフライの自動販売機を設置したことで話題になった、広島県大崎上島町のカキ養殖業「ファームスズキ」。海で養殖いかだを浮かべる一般的な方法ではなく、塩田跡の池で養殖かごを使ってカキを生産するというユニークな養殖を実践。大粒のむき身が主流の日本では珍しく、小粒のハーフシェル(殻の片側をついたままにしたもの)を主力としているほか、国内消費が大半だった業界で海外輸出へ先陣を切った存在でした。

歴史ある地場産業の中で「異端」をゆく鈴木隆社長(46)の覚悟は、どのように作られていったのでしょうか。3本連載の2本目では、瀬戸内海の島に行き着くまでの紆余曲折についてお伝えします。
INDEX
  • 「かつては塩田」 その歴史も商品に
  • 今生きる、大学時代の恩師の教え
  • 海外のマーケットで感じた活気
  • 出発点は、自家製の干しナマコ
  • ノロウイルス流行が転機、広島との縁に
  • 「世界標準のカキで勝負」と一念発起
  • 好きなことをとことんやり尽くす

「かつては塩田」 その歴史も商品に

養殖池と店舗の中間地点に、小さな加工場があります。
従業員たちが黙々と手際よく手を動かしている部屋の隣に、大きなマシンが鎮座していました。
「地下海水をくみ上げてきて、ここで3%の濃度が8-10%まで濃縮されます。それをガスバーナーで熱すると、下から塩が出てきます」
鈴木さんが説明しました。この逆浸透膜加熱ドラムを使って、店内でも販売している塩「クレールソルト」が作られます。ほのかな甘みとまろやかなうまみがふわっと口に広がる、料理の引き立て役にピッタリの塩。店舗およびオンラインでファームスズキが製造・販売する30点の中でも人気商品の一つだそうです。
左端がクレールソルト。ファームスズキの人気商品の一つ
「1800年代に塩づくりが盛んだった瀬戸内海の離島、広島県大崎上島にある塩田跡。かつての塩田から地下海水を汲みあげ、現代版として復刻した塩です」。商品にはそう記してあります。
海に面した、4区画の養殖池= FARM SUZUKI提供
温暖な気候で日照率が高いため、大崎上島町ではかつて塩田を使った塩づくりが盛んでした。今、ファームスズキがカキの養殖池として使っているのもまさに塩田跡。自然の恵みに感謝し、島の歴史を刻んだ一品です。

今生きる、大学時代の恩師の教え

「(クレールソルトを製造するマシンは)恩師が設計図を書いてくれた機械なんです。先生は理論を知っているから、微分積分を使って全部書いてくれました」
恩師の横田源弘先生が手書きした、逆浸透膜加熱ドラムの設計図
恩師の名は、横田源弘先生。母校、山口県下関市の水産大学校の名誉教授です。
「小学生のときから魚釣りが好きで、川でコイとかフナとか釣ってきて、それを家で飼ったりして、学校でも生き物係を率先してやっていたんですけど、それしか好きなもんがなくて」
高校生の頃、生物の飼育が好きだから水産大学に進んで養殖の勉強でも、ともくろみましたが、受験生になっても釣りばかりしていたため、受験に失敗。
いったんは進学を諦め、土曜日ごとに地元チーム・浦和レッズの試合を見るような生活をしながら公務員の予備校に通っていたところ、水産大学校から補欠合格の連絡が来ました。入学式の直前でした。空きが出たのが海洋機械工学科だったため、それが鈴木さんの専攻となりました。そこで出会ったのが、横田先生でした。
「先生の教えは社会人になってから生きているんだなあって」。鈴木さんは懐かしそうに語り始めました。
魚の酸素消費量の研究を大学の卒論テーマに選び、どれくらいのスピードで泳がせたら魚が最もたくさん餌を食べるか、どうすれば最短で養殖できるかを調べる実験に取り組んだという鈴木さん。
先生が用意してくれた真新しい水槽を使い、説明書通りに魚を泳がせて計測していると、先生から「バカか」としかられました。「買った機械をそのまま使ってデータをとって論文を書くなんて誰だってできる」。先生はそう言って、数百万円はするであろうその機械を、なんと目の前で壊し始めたというのです。
それからの半年間は先生と一緒にポンプの改造に取り組む日々。「実験装置を自分で考えて作って、データをとって論文を書いて初めてその人の価値が生まれる」。それが横田先生の教えでした。

海外のマーケットで感じた活気

「注文がきたものを単に納品するだけでは価値はひとつもない。こんな商品が売れるだろうなと考えて、開発商品を作って、それを提案して売れて初めて価値がある」。大学卒業後に就職した東京の大手水産卸会社でも、上司からこう叩き込まれたそうです。
今からさかのぼること20年ほど前。「海老部海老課」所属だった鈴木さんはインドネシアやベトナムなどからエビを輸入する仕事をしていました。
サラリーマン時代、出張先のインドネシアでの鈴木隆さん(奥の白ワイシャツ姿)。水揚げされたばかりのエビの品質をチェックしている=本人提供
この頃から鈴木さんは、アジアの生産者と欧米の買い付け業者とがダイナミックに交錯するマーケットのスケールの大きさに刺激され、「輸入するだけじゃなくて輸出したい」という夢を抱き始めるようになります。「失われた20年」と言われ、日本の経済が低迷を極めていた時代、余計に海外のマーケットの活気に魅了されました。
合弁会社をつくるプロジェクトの関連で、グルメの街・香港に通うように。日本国内では、赤身と中トロばかりが好まれ、高価な大トロはなかなか売れないのに、香港では毎月5トン、10トン単位で注文が入る。ますます海外で仕事をしたいと思うようになりました。

出発点は、自家製の干しナマコ

「海外に出せる日本のものってなんだろう」。考えをめぐらせていると、中華料理でも使われる干しナマコに行き着きました。赤ナマコが重宝される中で端材扱いをされていた青ナマコと黒ナマコを買って、独身寮の台所でゆでて毎日乾燥させる。乾燥による縮みの歩留まりなどを計算して帳簿をつけながら研究。出来上がったものを担いで、格安チケットを買って休暇中に香港に行き、乾物街に飛び込み営業をしました。
すると、ナマコを水揚げしている水産会社の社長から、「お前と同じようにナマコをやりたがっている人がいて、君に会いたいと言っている」と言われ、カキの卸・冷凍・加工では国内トップシェアを誇る広島県尾道市の「クニヒロ」の川崎育造社長(現・会長)と会うことに。
カキに注ぐ事業の2番目の柱として何かを探していたという川崎さんは、干しナマコの歩留まりやマーケットリサーチについて記した鈴木さんの帳簿を見て、「うちに来て、ナマコの事業をしてくれないか」と誘ったそうです。
「でも、僕まだ20代だったし、田舎に引っ込んで干しナマコを作ってもなあ、と思ってお断りしたんですよ」
ただ、その後も東京出張にやってくる川崎さんと情報交換をしながらお付き合いを続けていました。
ファームスズキで育てたカキ。これから殻を半分だけ外してハーフ・シェルにする

ノロウイルス流行が転機、広島との縁に

そんなとき、広島のカキ業界を震撼させる出来事が起きました。2006-2007年シーズンの、ノロウイルス大流行です。カキがとたんに売れなくなり、業界紙はクニヒロの苦境を報じていました。
鈴木さんは心配になって川崎さんに連絡し、「国内でカキがなかなか売れないなら、香港だったら売れます」と伝えると、「一緒に会社をつくって、うちのメーカーの工場で作った冷凍のカキフライとかむき身を海外に販売する会社をやってもらえないか」と、改めて誘いがありました。
結果的に、それが、広島への入り口となりました。川崎さんと一緒に2008年、冷凍カキを輸出する「ケーエス商会株式会社」を設立しました。川崎さんのK、鈴木さんのS、でケーエス商会です。
ケーエス商会を立ち上げた翌年、ニュージーランドを訪ねてカキの養殖について学んだ鈴木隆さん=2009年ごろ、本人提供
実は当時、広島で取れたカキは国内でしか流通しておらず、輸出を手がける生産者は皆無だったと言います。だから当然、最初はお客さんがいない。カキのサンプルを担ぎ、1年の大半、台湾や上海、香港、シンガポールに行って展示会に出るなどしました。
ファームスズキの冷凍ショーケースに並ぶカキ。殻付きも、むき身もある
食通が多い香港で勝負するためには、現地の有力者を入り口にすべきだ――。そんなアドバイスを受け、ある財閥系の大手食品輸入商社「新華日本食品有限公司」(香港)のメイ・チョイ(蔡紹霞)社長に狙いを定めました。敏腕女性社長として知られる人物です。
広島県主催の香港での商談会で、メイ社長を相手に熱弁をふるっていると先方が関心を示し、40分の持ち時間を大きく超えて2時間半にわたって対話をしたそうです。
「ぜひ日本に見に来てください」。お願いするとメイ社長は翌週飛んできたそうです。全国津々浦々の自治体から商談会に招かれていた彼女は、勉強熱心でフットワークが軽く、おいしいものがあると聞きつけたらすぐに現場に飛んでいくようなエネルギッシュな人だそうです。かわいがられ、10日間レンタカーで一緒に産地やメーカーを回ったこともありました。
「どこに行っても、水産物の産地は閉鎖的。なのに、そういうところに飛び込んで商談するってすごいなって」。彼女もまた、鈴木さんに大きな影響を与えた一人だそうです。

「世界標準のカキで勝負」と一念発起

台湾などにも飛び込み営業し、ちょっとずつ売り先が増えていきました。すると生活の拠点を東京から広島に移さざるを得なくなりました。コンテナ単位で売るため、工場と綿密にやりとりする必要があり、「広島の工場のそばにいなければ」と、当時暮らしていた東京から広島に移ることになりました。
一つ一つ丁寧に殻を外す従業員の女性
本格的に海外相手にカキの仕事を始めると、やはり生の方が圧倒的にマーケットで強いと痛感しました。日本のおいしいものを世界に、というのであれば、世界標準でやるしかないと考えました。むき身を基本として生産した日本流のカキも輸出してみましたが、舌の肥えた香港のメイ社長から受け入れられなかったこともありました。
ケーエス商会のパートナー・川崎さんの支援も受け、かつて訪ね歩いたアメリカ・シアトルでの養殖スタイルを参考に、日本でのカキ養殖にトライしようと一念発起することに。
ノロウイルスのリスクも少ない養殖池での生産を視野に、2011年、尾道市から世界遺産・宮島のある廿日市市の間で、養殖をする場所を順ぐり1週間かけて探していたとき、大崎上島で10年以上放置されていた塩田跡と出会ったのです。それが運命の出会いでした。
塩田跡の池に出会った2011年当時の鈴木さん=FARM SUZUKI提供
ケーエス商会の100%子会社として、会社を設立したのが2015年、ここから、「ファームスズキ」の歴史が始まったのです。照れくさそうに鈴木さんは言いました。

好きなことをとことんやり尽くす

「経営哲学みたいなシャレたものはないですけど、人がやっていないことをやって、ないものを作り出して、それを自分のビジネスにするっていうことでしょうか」
ファームスズキの立ち上げ後、ニュージーランドに視察に行ったときの鈴木隆さん=本人提供
カキの養殖といえば通常はいかだでやるのに、塩田で欧米式のかごを使ってやる。大ぶりのカキが主流なのに、小粒にチャレンジする。海ではなく池で育てる。国内販売だけでなく海外への輸出にトライする。「生き物係」の情熱と、「経営者」の覚悟と。
夏にかけてのカキづくりについて語る鈴木隆さん
「好きなことをやらないとダメだなって思うんですよ。やり尽くさないと。どんな仕事も一緒かもしれないけど、エビとかカキでわからないことがあったらダメだし、車エビは特に夜行性だから、昼間は砂に潜って寝て、夜になると出てきて泳ぎ回っている。24時間どういう動きをしているかを知らなかったら稼げない」
ビジネスパートナーである川崎さんは、親子ほど年が離れていますが、関係性はむしろ「兄弟」なんだそうです。ファームスズキのチャレンジを「うらやましい」と温かく見守ってくれているという川崎さんとは、今でも釣りに一緒にいく仲だとか。
時間があれば、釣りに出かけると言う鈴木さん。店の片隅に一式が
「大きな会社の経営をしてきた人だけど、結局現場が一番楽しいって。やっぱ、そうですよね」
砂を触って状態を確認する鈴木隆さん
Vol.3に続く