【東浩紀】私たちの「考える時間」を取り戻せ
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ツイッター上では「モノを考えない」
というのは本当にそうなのだろうか。”SNS思考”ともいえる制約のなかでの言葉なので、実はそのなかでさまざまなクリエイティブが発揮されていたり頭つかう感じもする。技術は不可逆に、新しい適応を求める。そこに課題はありながら、人間側が使い方を分けていく。
ハッシュタグの進化は、逆に「考えて練り上げた文章」の伝播性の悪さを実感する。求められていないとも感じる。短尺動画は物語は伝えないと言われるけど短尺のなかでのストーリーを想起させる工夫も理解できるようになってきた。ツイッターなどSNSは、私たちの「知のあり方」をどう変えているのか。そして、何を奪ってしまったのか。作家、批評家であり、みずから長尺の有料動画のサービス『シラス』を運営する東浩紀さんに、この問題についての考察を語ってもらいました。
Twitter上のハッシュタグであったり、140文字によるシンプルなメッセージは、ときに100万人、1000万人に波及して、世界を動かしているように見える。しかしその実、単純化した意見を再生産するだけで、人々が行動や意見を変えるような「ものごとをじっくり考える」という文化が、消えているのではないかと、指摘します。
SNSの全盛期、どう人々はものを考える時間を取り戻せるのか。ぜひ東さんの考察を、ご一読ください。「ゼレンスキーモデル」というのは、大変良い表現です。
そして、「いまはウクライナが正しいんだからそれでいいんだ」「あいつらはばかだ、聞く必要なし」という意識の問題点について、最近モヤっとしていたことを的確に言語化しています。
これはみんなに読んで欲しい記事です。
ゼレンスキは戦争前から報道統制を敷いていますし、トランプは都合の悪いことを「フェイク」と断じ、周庭氏は正義のみを訴えて無秩序な破壊活動には言及しません。
本邦を振り返ってみれば、自民党はネットサポーターやDappiをフル活用し、維新はマスメディア出演を繰り返しています。やり方は異なりますが、自分に都合の良い情報を溢れさせ、支持者に他の情報を見せないようにする点は同じです。
要するにいずれも、意見を異にする者との、まっとうな形での議論がないのです。そもそも、自分たちと異なる視点から自分たちの考え方を見直す、思考を広げて深めるためのプロセスが欠落しています。
SNSは、まったく知らなかった分野の存在を認知する、ゼロをイチにする点では大変優れたツールです。ただし、一つのことについて様々な視点から深く知ることはできません。
人間も社会も総合的な存在で、見る角度によって様々な側面を有するものです。それなのに、今はとにかく一面的な思考で「数を稼げば良い」が蔓延しています。これはまさにSNSの短所がそのまま現れてしまっています。
「公共」とは何なのでしょうか。これについて全体を巻き込んで議論を行い、コンセンサスを作らない限り、我々はそれそれが「信用できそうな人が述べている正しそうな主張」になびくだけの、衆愚政治の罠から抜け出せません。