2022/2/15

【山口】金策尽き、杜氏も逃げ…逆境から“数値管理”の酒造り

ノンフィクションライター
純米大吟醸「獺祭」で知られる旭酒造(山口県岩国市)は、かつてはつぶれかけた酒蔵でしたが、杜氏なしの生産管理による通年醸造という異例の手法で再建し、米を磨いたすっきりした飲みやすさで市場を席巻しました。

その勢いは海外にも波及。新型コロナウイルス禍においても、いち早く景気回復したアジア圏への輸出が功を奏し、2021年9月期は過去最高となる140億円を突破する売上高となりました。日本国内の大手酒造会社に匹敵する水準で、2022年夏には米ニューヨークでの現地生産開始が控えています。

「今後は『真のグローバル企業』となることをめざす」と口をそろえる桜井博志会長と、長男の一宏社長の経営哲学とは――。(全4回の第2話)
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INDEX
  • ユニクロのビジネスモデル、「獺祭に通じる」
  • 父の死で跡継ぎ、東京向けブランド「獺祭」を発案
  • 「日本一の酒」めざした「磨き二割三分」
  • ビアレストランで大失敗。杜氏に逃げられる
  • 米国進出に向けユダヤ教「コーシャー」取得
  • 地元・獺越地区を獺祭の“聖地”に

ユニクロのビジネスモデル、「獺祭に通じる」

旭酒造は、現会長の桜井博志氏が、傾きかけた酒蔵の経営を亡き父から引き継ぎ、一時は大きな負債を抱えて自殺までが頭をよぎりながら、ピンチをチャンスに切り替えて事業を急拡大させてきました。関係者の間で桜井会長は、「酒蔵の主というより経営者」(大手酒販店社長)という評価が定着しているようです。
博志会長 「うちがうまくやれている経緯? 僕が好き勝手にやってきたからだと思いますよ。企業は常に変わり続けなければいけない。その点では、同じ山口県創業のファーストリテイリングの柳井正会長兼社長をかなり意識しています。目まぐるしく新商品を出すファストファッションとは違い、ユニクロは高品質で長く着てもらえるものを常に改良し、進化させている。このビジネスモデルは獺祭にも通じるところがあります
柳井正氏は、父から引き継いだ片田舎の紳士服店を、試行錯誤を繰り返しながら一代で世界的なカジュアルウェア「ユニクロ」のブランドに育てあげました。今も山口市に本社があります。ちなみに「ユニクロ」の海外出店の際の鏡開きには獺祭が使われてきました。

父の死で跡継ぎ、東京向けブランド「獺祭」を発案

旭酒造の起源は江戸時代の1770年にさかのぼります。太平洋戦争の終結後に博志氏の父が戦地から戻り、1948年に5つの蔵が合併して発足しました。博志氏は大学卒業後、家業を継ぐため、兵庫県の大手酒造会社に入り、営業で好成績を出した後、1976年に旭酒造に入社しました。
ただ博志氏の父は昔かたぎで、酒造りを杜氏に任せきりで、町会議員など地域活動の方に熱心でした。当時は「旭富士」という銘柄の普通酒を造っていましたが、売り上げは次第に下がり、博志氏は意見が合わなくなって旭酒造から飛び出してしまいます。
幼い頃の桜井博志会長(左)と父・博治さん=旭酒造提供
親戚のつてで石材業を起こし、経営は順調でしたが1984年、その父が病で亡くなり急きょ跡を継ぐことに。この年の売り上げは前年比85%減で、倒産寸前の状態でした。酒を売るために思いついたことを次々と実践、紙カップと紙パックの酒を出し、そこそこ売れたものの長続きはしませんでした。
「『地元の名士』として地域活動を熱心にやっても酒は売れません。それまでは、問屋さんに押し込めば何とかなるという感覚でしたが、安売り競争に巻き込まれてどんどんダメになっていく。一方で石材業から私が学んだのは、品質が良いものは必ず売れるということ。本当にうまい酒を造りたい、(香りが高くなるよう)精米50%以下の大吟醸を造ろうと決めました」
社長就任当時の桜井博志会長(右端)=旭酒造提供
「静岡の吟醸酒造りを指導した河村伝兵衛氏によるノウハウ集を参考にしました。そして山口にとどまっていては展望が開けない、東京に出ようと。そのためのブランドを考え、獺祭がひらめきます。本社の所在地名『獺越』(おそごえ)からの発想で、『カワウソの祭り』の意味ですね。(明治の俳人の)正岡子規の俳号の一部でもあったと気が付いたのは後のことです」

「日本一の酒」めざした「磨き二割三分」

農林水産省の資料によると、日本酒の国内出荷量はピーク時の1973年に170万キロリットルを超えていました。旭酒造の売り上げもこの頃が最も多かったそうです。ですが、ビールなど他のアルコール飲料との競合や、消費者の健康志向から、その後は右肩下がりの減少に転じます。直近の2020年はコロナ禍の影響もあって約42万キロリットルにまで落ち込みます。
出典:日本酒造組合中央会
一方、桜井会長が経営を引き継いだ1980年代は、新潟の「淡麗辛口」の日本酒が人気を博し、1990年代前半にかけてのバブル景気では、高級志向の吟醸酒の人気が高まります。
旭酒造が純米大吟醸の獺祭を初めて東京の酒販店に卸したのは1990年、精米歩合は50%と45%の2種類でした。1992年には、基幹商品となる「獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分」を出します。
「とにかく日本一になろうと。『磨き24%』の酒があると東京出張で問屋さんに聞いて、帰りの新幹線の中から公衆電話で『23%まで磨け』と社員に指示しました。『獺祭はダサい』などと言われたくありませんでした。今は精米技術も進化しており、うまい酒を造るために、磨きだけにこだわる必要はなくなりました。『磨き競争』にはくみしてはいません

ビアレストランで大失敗。杜氏に逃げられる

獺祭のリリース後も旭酒造の経営は山あり谷ありでした。最大の失敗が1999年3月に、山口県岩国市の錦帯橋のそばにオープンさせたビアレストランです。
200人を収容する大型施設で、「オッターフェスト」という、ドイツ語で獺祭(カワウソの祭り)を意味する地ビールの製造所を併設、世界トップレベルの大道芸を見せる施設です。酒蔵は冬の仕込みが中心で、従業員の時間がある夏場に仕事を造ろうと考えたためです。
オープン当初は大きな話題になりましたが、すぐに閑古鳥が鳴くようになり、3カ月で閉鎖をやむなくされます。コンサルタントが作った経営計画がずさんで、その後、訴訟問題にも発展しました。
「金策に苦しみ『死んだら生命保険金が下りるかな』とも考えました。最終的には金融機関の低利融資でしのぎましたが。『旭酒造はつぶれた』といううわさが立ち、杜氏に逃げられてしまいます。万策尽き、ならば酒造りから瓶詰めまで、自分たちでやりたいようにやろうと腹をくくりました
「1999年が(再出発の)元年です。広島にある国税庁酒類総合研究所を訪ねていろいろ聞きました。杜氏は経験と勘なのか、作業を適当に切り上げてしまうようなところがあった。でも私以下社員はみな素人だから、作業計画を練り、温度管理も何もかも、グラフを作って基本に忠実に厳密にやってみた。それでできましたね。もう杜氏を呼ぼうという気にはなりませんでした。結果としてピンチをチャンスに切り替えました
徹底した数値管理による酒造りで、年々売り上げは伸びていきました。生産量が増えるほど、酒米に使う山田錦の確保に苦労し、地元・山口県では調達が難しくなります。その結果、全国の農家から個別に山田錦を買い入れるようになります。

米国進出に向けユダヤ教「コーシャー」取得

筆者が、初めて本社を訪ねたのは10年ほど前の2012年夏。今はない旧社屋、そして近くを流れる東川のそばにあったそば屋さんで食事をしながら博志氏(当時は社長)が語った夢は、とてつもなくスケールが大きいものでした。
博志氏(当時)「ユダヤ教の教義にのっとった安全な商品であるという『コーシャー』の認定を受けました。米国進出に当たり、政財界を含め重要なポジションを占めているユダヤ民族を意識したものです」

「国内では、まずは東京に店を出します。その先は大阪や名古屋などではなくパリ、ニューヨークです。海外展開も視野に入れ、生産量を増やすには、この場所で高い酒蔵ビルを建てるしかありません。山間の土地で、平地は限られているからです」
旭酒造の旧社屋=旭酒造提供
酒蔵でコーシャーまで取得したというケースは今でもまれでしょう。そして2013年5月に東京・京橋に出店した「獺祭Bar23」は、日本料理の名店「青柳」の小山裕久さんプロデュース。「青柳」の料理をつまみにさまざまな「獺祭」が飲めるぜいたくなバーでした(現在は閉店)。

地元・獺越地区を獺祭の“聖地”に

社屋の増改築を重ね、地上12階建てとなる、現在の本社兼酒蔵ビルが完成したのは2015年。この年、年間生産量は3万5000石(約630万キロリットル)に拡大しました。
本社のそばには建築家の隈研吾氏がデザインした、しゃれた直売店があります。試飲コーナーも併設、内部には同じく山口県出身の漫画家の弘兼憲史さんが描いた「獺祭」マンガの原画も飾られています。東川の川沿いにはお酒を楽しめるテラスがあります。
旭酒造の現在の社屋。手前はお酒も楽しめるテラス
ちなみに東川は2018年夏の西日本豪雨で氾濫し、旭酒造本社近くにある全長15mほどのコンクリート橋「久杉橋」が損傷しました。山口県と岩国市が管理する橋ですが、旭酒造は同社の負担でデザインを隈研吾氏に依頼。建設作業が佳境に入っています。完成は今年の予定です。
多くの観光客がつめかける獺越地区は、獺祭の歴史とスピリットを感じながらお酒の楽しめる場所となりそうです。
「立派な橋があるだけではもったいないので、周辺一帯を、獺祭の世界観が分かるような場所にしたいと考えているんです。聖地とかテーマパークなどというほど大げさではなく、ブランドを表現し、象徴する場にしたいと、計画中です」
Vol.3に続く(※NewsPicks +dの詳細はこちらから)