【盲点】サステナブルな社会が「不足経済」を助長する
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子どものころ見ていた、ディズニーのアニメだったかと...
登場人物が崖から足を踏み外しているにもかかわらず、しばらく空中を歩き続け、異変を察知して下を見たら、なんと空中にいる!と気づいてから、ようやく重力が発生して落ちていく。そんな光景を度々見てきました。
それを思い起こすのが、最近の前のめりの脱炭素やデジタル万能論。ともすると物理法則、資源の希少性、はたまた熱力学のエンタルピーなどの自然法則を軽視しているのではないかと危惧しています。
「世界のどこかでイノベーションが起きるはずだから、変革に乗り遅れるな」という同調圧力の下、「理想」へと突き進むものの、しばらくしたらアニメのキャラのように宙に浮いていることを知り、万有引力によって落ちていく。
つまり、リアルの制約を無視できないことが分かり、不足・ひっ迫・価格高騰の「3つの痛み」によって現実論に引き戻される。こうしたことをくり返してきたし、これからも繰り返すのではないかと思っています。
もちろん、いつまでも資源やエネルギーをじゃぶじゃぶ使い続ける生活がサステナブルでないことは重々承知しております。
そして、巨大な資本調達をバックに、「物理的に無理ゲーやろ」とされている社会課題の解決に本気に挑む起業家が雨後の筍の如く現れて、そこから革新が生まれている可能性についても承知しております。
そのうえで、物理法則をわきまえたサステナブル社会、つまりEVや再エネ万能論ではなく、あらゆる施策の総合格闘技を支持したいと思っています。「大量消費社会に別れを告げる」ということは、この200年間、ついぞ起きませんでした。
しいていえば、ソ連の実験ですが、あれは、計画経済で物を効率的に生産しようとしたら、政府の都合で軍需産業に偏重して物不足になっただけです。
物不足は古代から繰り返し起きてきたことです。18世紀まで、人類の最大のエネルギー源は森林でした。メソポタミアをはじめ、世界各地の文明が、木を伐りすぎて、エネルギーを確保できなくなり、衰退しました。
人は、物不足で滅亡するとわかっていても消費を続けます。消費を節制したことで生きながらえた文明は存在しないでしょう。
18世紀、木を伐りすぎてどうにもならなくなったヨーロッパでは、技術革新、つまり蒸気機関と石炭のガス化によって、エネルギーの確保に成功しました。石炭が主要なエネルギー源になりました。
20世紀になると、石油、天然ガス、ウランが新たなエネルギー源になっていきました。
エネルギーの問題だけではなく、古代では錫が不足して主要な素材である青銅が生産できなくなる文明が増えました。多くの場合、製鉄技術の確立によって、素材不足は克服されました。
20世紀は、石油からプラスティックを、ボーキサイトからアルミニウムをつくる技術が確立されて、素材の供給が可能になりました。
つまり、技術革新によって物不足が克服されてきた(さもなくば滅亡した)のが人類の歴史です。それが、この250年間で急加速して、サイクルの回転がどんどん速くなっています。
物不足が進むと技術革新が必ず起きるという保証はありません。しかし、今のところは、資本の集中と投下によって、技術革新を加速する余地は十分あるように見えます。
ムーアの法則の話でいえば、スーパーコンピュータの計算速度を競っていたような時代から、量子コンピュータの開発へとすでに技術革新の目標は移行しています。コンピュータも、20世紀半ばは真空管でつくっていました。それが半導体に移行しましたが、電子材料もまた従来のものとはかなり異なるものになっていくのでしょう。足りない足りないと言っているだけでははじまらない。デマンドドリブンな社会の構築を。
レアメタルなど不足しそうなものは昔からわかっていました。ですから、循環型社会の実現は不可欠で、それが難しいのがエネルギーです。なぜならばエネルギーには発電効率の限界と送電ロスというとてつもなく大きな非効率が存在しているからです。時間はかかってもエネルギーインフラの持続性の確保は不可欠です。
加えて、無駄に生産している食糧や無駄に運んでいる物資にも大量のエネルギーが消費されています。またモビリティシステムも同じことが起きえます。まず消費の需要に合わせた、リアルなデマンドドリブンの社会システムの構築が不可欠だと思います。