2021/3/3

水素を「バブル」で終わらせない。市場形成への次の一手とは

Newspicks Studios Senior Editor
VUCA、withコロナ──激動する、正解のない時代。未来をつくるビジネスの萌芽は、どこに眠るのか。
世界中でビジネスを展開する三井物産は、「共創」を深化させている。多彩な「個」が、多様なパートナーとの「化学反応」を生んでいく。その力を活かし、次世代の価値創造に挑む。(全5回連載)

水素はコロナ後の景気回復起爆剤?

 グローバルで環境問題への対策が叫ばれるなか、水素社会の実現に向けた動きが活況をみせている。その最たる例が、水素を使って走る燃料電池自動車(FCEV)の実装だ。
 三井物産は2020年、JBICとともに米国カリフォルニア州に拠点を置くFirstElement Fuel(以下、FEF)に出資参画。水素社会の最先端といわれるカリフォルニアで、FCEV向け水素ステーションの普及に取り組んでいる。
 FCEV普及に大きな壁として立ちはだかるのが、そのコストの高さだ。
 一方で、三井物産としてはパートナーの強みを活かし、産業をつないで複合的な解決策を提供できるチャンスとなる。何より、同社がマテリアリティ(重要課題)の一つとして掲げる「環境と調和する社会づくり」に貢献できる事業としても、注力する意義は大きい。
 なかでも大きなきっかけとなったのは、炭素繊維を活用してタンクを製造するメーカーへの出資だった。

炭素繊維から水素事業に、なぜ?

 2016年、三井物産は炭素繊維事業の一環として、ノルウェーにあるHexagon Composites(以下、ヘキサゴン)へ出資。これを契機として、水素ビジネスに本格的に乗り出していくことになる。
 ヘキサゴンは、世界最大の炭素繊維強化圧力タンクメーカーで、天然ガス自動車の車載向けタンクなどを製造している企業だ。
 だがなぜ、炭素繊維事業が水素事業につながるのか。
 2015年4月に機能材料事業部へ異動し、ヘキサゴンへの出資案件を担当した栁田麦彦は、
「密度が低い水素は空気のようなものなので、液化したり高圧にしたりして貯蔵や輸送をします。それらに必要なタンクや部材に使われるのが、軽量の炭素繊維なんです。
 炭素繊維は、鉄の10倍の強度を持ちながら重さは鉄の1/4なので、水素の貯蔵や輸送に適しているんです」
と、そのつながりについて話す。
 ヘキサゴンでの事業を通じて、三井物産は水素ステーション事業を展開するFEFを知る。2019年の融資による資金提供を経て、翌2020年にはJBICとともにFEFに出資。あらゆる産業をつないできた三井物産にとって、その流れは必然であった。
 現在FEFの社外取締役としてカリフォルニアの水素ステーション事業の指揮を執る柳澤大輔は、この一連の出資を「三井物産らしい戦略的な投資事業だ」と語る。
「目指すのは、水素ステーションだけではなく、そこから派生する事業を通じた総合的な展開です。

『水素』をキーワードに、さまざまなバリューチェーンと市場の拡大に貢献して、新しい価値を生み出していきたい。

 そのためにパートナーとどのように協業していけるのか、この投資にいかに社会的な意義があるのかを、会社からも非常に強く問われます」
 リターンをすぐに求める金融投資と違い、社会的課題の解決につながる付加価値を重視し、中長期的に考える。それが三井物産の狙いだ。

カリフォルニアの水素社会の実態

 社会的意義のある市場を新たに創造する。その視点で水素市場を俯瞰し見えてきたのは、FCEVやタンクなどのソリューションはあっても、インフラが全く追いついていないという現実だった。
「水素最先端市場といわれるカリフォルニアでも、2019年当時で水素ステーションは30ほどでした(2021年3月現在は44)。

 我々がいくら水素関連の商材を開発したところで、実際にFCEVが走れる環境がほとんど整っていなかったんです」(柳澤)
 FCEVの普及には当然、水素ステーションなどのインフラ整備が不可欠だ。しかし、初期コストが莫大にかかるため投資に手を挙げる者はほとんどいない。まさに鶏が先か、卵が先か、だ。
「だからこそ、三井物産のような企業が中長期的な目線で資金を提供する意味がある。我々の手で、水素市場がしぼむことなく、拡大できるようにするしかないんです」(柳澤)

「水素バブル」に踊らされず、未来を見据える

 最先端と言われるカリフォルニアの市場でも、まだまだ水素インフラは十分とはいえない。市場は生まれたばかりで、FCEVはまだ圧倒的なマイノリティだ。
 一方で、水素は「コロナ後の夢のエネルギー」として世界中から熱い視線を浴びている。
 栁田は、この状況を冷静な目で見つめている。
「世界的にSDGsやESG投資の流れがあったところに、グリーンエネルギーでコロナ後の経済回復を目指す “グリーンリカバリー”という言葉が飛び交うようになりました。
 じゃあ、グリーンな事業って何? となったときに、みんなが水素だと言っているのが現状です」(栁田)
 確かに水素への注目度は急激に高まり、水素関連事業の株価も上がっている。
 しかし、実際の水素需要には大きな変化がないのが実態だ。日本でさえ、足元のFCEV生産台数は1万台に満たない。
「そういう現実と水素への期待値の高さに、今は大きな乖離があります。まさに“水素バブル”ですね。

 ただ、この状況は決して悪いことだけではなく、市場拡大には必要なモメンタムでもあります。さまざまなプレーヤーの興味が水素に集まれば、水素が抱えている課題の解決につながる。これから本当の意味での実用化が進んで、期待に現実が追いついていくはずです」(柳澤)
 水素が盛り上がることは、決してネガティブなことではない、というのは栁田も同意見だ。
「盛り上がっているからこそ、なおさらブームに惑わされることのないように。
 
 水素事業が成立するかしないかというポイントを冷静に、ひとつひとつ見極めていきたいですね」(栁田)

「水素だからできる」領域を追求する

 改めて、モビリティ領域における水素の可能性を考えてみよう。
 モビリティの電化はすでに規定路線だ。一方、電気自動車(EV)が中長距離を走行するには、多くのバッテリーを積載するか、途中で長時間の充電が必要となる。
 一方で、軽量な水素タンクを搭載すれば、車両の軽量化にもなるし、航続距離も伸ばせる。
 これらのニーズが当てはまるのが、中長距離を走るトラックやバスなどの商用車だ。
 24時間稼働するフォークリフトなども、水素燃料を使えば数分間の水素充填で稼働率をあげることができ、時間のかかるバッテリー交換も不要となる。
「ただ、すべての燃料エネルギーを水素に置き換える必要はありません。それぞれの分野で、電気ができること、天然ガスが得意なことがあります。水素が最適となるのは、その一部の領域に過ぎない。
 CO2排出削減を大前提としながら、国や地域の状況によってエネルギーポートフォリオを考える必要があるでしょう」(栁田)

カリフォルニアに学ぶ、水素社会促進への仕組み

 水素普及には、最終的にコストを現在の1/2、商用車の場合は1/3にすることが目標値となる。
「市場が広がり、サプライヤーが増えれば、当然コストも下がります。

 その好循環を創り出して、水素エネルギーという新しい価値の市場を成立させるのが、我々の役割です」(柳澤)
 もちろん、それには国の政策の後押しも欠かせない。いくら水素のコストが下がったとしても、今の仕組みで製造から輸送、貯蔵をする限り、ガソリンやディーゼル並みの価格に落とすことは非現実的だ。
「ユーザーが水素を使いたくなるように、CO2を排出するエネルギーをネガティブ評価し、水素のようなCO2を排出しないエネルギーをプレミア評価するような市場メカニズムが必要。かつ、それを後押しするような国や自治体の環境政策も重要です」(栁田)
 炭素税や排出量取引制度といったCO2排出量を価格付けする「カーボンプライシング」が国レベルで整備されると、水素の実用化も大きく進んでいくはずだ。そのモデルケースが、現在のカリフォルニアにある。
 カリフォルニアでは、燃料を炭素係数(炭素を含む量)で計算する。水素のような炭素係数の少ない燃料を販売すると、販売量に応じたクレジットを創出・獲得できる。
 逆に炭素係数の高いガソリンやディーゼルを販売する事業者は、創出されたクレジットを購入し削減目標を達成する義務を負う。
 クレジット購入コストはガソリン代として最終消費者に転嫁されるため、結果的に電気、天然ガス、FCEVなどが優遇される仕組みだ。
 カリフォルニアで暮らす柳澤は、現地の状況を次のように説明する。
「環境に対していいことをすると、金銭的な報酬として返ってくるのがわかりやすいですよね。テキサスでは、ガソリンは1リットル66円ほどですが、カリフォルニアはその1.5倍くらいの値段。一方、FCEVの水素燃料は、エンドユーザーにとっては実質タダです。

 ほかにも、FCEVの購入は税金優遇や補助金などの経済的メリットや、高速道路で優先走行レーンが使えるなどの利便性もあります。

 もっと水素ステーションが整備されれば、水素自動車が走れる範囲も広がり、より快適で便利なモビリティだと広く認知されるはずです」(柳澤)

「やっぱりダメだ」とならないために

 また水素の普及には、安全性とコストバランスの問題解決や、消費者側のマインド醸成も関わってくる。
「もちろん、十分な安全性を確保することは第一です。そのうえで、コストを下げていくためにも実用例を増やし、たしかな実績を積み重ねていくことが重要です。
 また、一般ユーザーの水素に対するイメージも、“危険なもの”という先入観から“安全でクリーンなもの”に変えていくことが大切。
 少しずつコストを下げながら、同時にユーザーのマインド醸成も慎重に進めていかなくてはなりません。無理をせず着実に、と思っています」(栁田)
 何度も繰り返される「着実に」「無理なく」という言葉からは、水素ブームの盛り上がりから一線を画す信念が伝わってくる。
「今はまだ水素を取り巻く課題を解決している途中の段階。ブームになり人々の期待値が上がりすぎて、すぐに結果がでないことに“やっぱり、ダメだ”と思われることが一番怖い。
 丁寧に目の前の課題をしっかり解決していくことが、最終的には良い仕組みを創ることになります。
 もちろん、スピード感も重要ですが、技術、ユーザビリティ、オペレーションなど、あらゆる要素が中長期的に着実に回る仕組みを創っていきたいと思っています」(柳澤)
FEFは2026年までに70ヶ所の水素ステーションの開設を計画。インフラ拡充を牽引する
 栁田は、熊本県水俣市出身だ。幼少期から水俣病に向き合う大人たちに囲まれて育ち、環境問題は原体験のひとつだと言う。
「そんな自分が水素にどっぷりと向き合っている。未来をつくっているという実感は自然と湧いていますし、新しい価値を生み出していることへのやりがいは大きい。

 炭素繊維と水素を軸にビジネスを広げようと努力してきましたが、今後はそれをどんどん形にしていきたいですね」(栁田)
 また留学時代をロサンゼルスで過ごした柳澤は、10年ぶりにロスで暮らすようになり、当時より空気がきれいになっていることに気づいたという。
「留学時代は、通勤渋滞の車の排気ガスで山が霞んで、まったく見えなかったんです。それが、最近は見えるようになっていて。

 燃料が良くなったり、エコカーが普及したり、コロナで外出しなくなったというのもあると思います。山が見えると、空気が良くなっているんだなと素直に感動します」(柳澤)
 しかし、今でも空気が汚れて山が見えない日もある。その風景を見る度に「EVやFCEVがもっと普及すれば、毎日、あの山を見ることができる。それは絶対実現できる未来だ」と感じている。
「ですから、このカリフォルニアから先進的な水素社会をショーケースとして世界に示すことが、まずは一番の目標です。

 そうやって社会的意義、経済合理性の両立する成功モデルを世界中に展開し、環境と社会が調和する未来の実現を目指したいですね」(柳澤)