2021/1/21

【高原豪久】1の努力、10の努力、100の努力

ライター&編集者
2001年に39歳で社長に就任。当初はその経営手腕を不安視されるも、圧倒的な実績で外野の雑音を跳ね返したユニ・チャームの高原豪久社長。

生理用品や紙おむつなど国内の事業基盤を強化するとともに、新興国を中心とする海外展開を加速。80を超える国や地域に進出して現地ニーズを掘り起こし、社長就任時に約1割だった海外売上高比率を約6割に、売上高を3倍にするなど、同社を大きく躍進させた。

なぜ創業者である父のカリスマ経営から、社員が自立的に動く全員経営へと転換できたのか。海外戦略、急成長を支えた人づくりなど、社長人生20年で培われた経営の要諦を語る。(全7回)

社長就任後、選択と集中

どうしたら後継者として認めてもらえるか。やはり自ら計画を立案、実行し、結果を出すことです。
私は入社4年目の94年、経営不振にあえいでいた台湾の合弁会社に赴任。経営再建を果たしたことで、ようやく周囲の見る目が少し変わりました。
高原豪久(たかはら・たかひさ)/ユニ・チャーム 社長
1961年愛媛県生まれ。成城大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て、91年ユニ・チャームに入社。台湾現地法人副董事長、サニタリー事業本部長、国際本部担当、経営戦略担当などを歴任後、2001年6月、社長に就任。
本当の意味で、信頼を獲得したのは2001年に社長になってからでしょう。経営資源を自社の得意分野に集中させるため、不織布や吸収体の加工・成形技術を生かす事業に特化する方針を打ち出しました。
これに伴い、バブル期の1988年、香川県宇多津町に建設された観光施設「ゴールドタワー」の運営から2001年に撤退、02年には祖業である建材事業を売却しました。
その昔、ユニ・チャームは多角化に舵を切っていて、かつては結婚情報事業や幼児教育事業なども手掛けていたのですよ。
特に建材事業は父にとって思い入れのある事業でしたが、もはや主力ではなく、収益性も低かったため、傷が浅いうちにと決断を下しました。
父はもちろん、その事業に関わった人はみんな嫌がりましたよ。だからきちんと説明しました。まず財務的な指標で将来、これは芽がないということを話しました。