2021/1/27

【西 和彦】ビル・ゲイツに対抗したくてアスキー社長になった

NewsPicks エディター
若い読者は知らないかもしれない。あのマイクロソフトがベンチャー企業だった1970年代後半、創業者のビル・ゲイツとポール・アレンの傍らに、ボードメンバーとして一人の日本人がいたことを。その日本人こそ当時まだ20代だった西和彦氏だ。

しかし、西氏は経営方針の相違からビル・ゲイツと決別し帰国。アスキーを上場させ、出版、ソフトウェア、半導体、通信事業を拡大するが、バブル崩壊とともに経営が悪化し、社長の座を追われることになる。

波乱万丈な「半生」とその「反省」を語り尽くす。(全7回)
西 和彦(にし・かずひこ)/アスキー 創業者、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリー ディレクター、須磨学園 学園長

1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部在学中の1977年にアスキー出版を創業。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、79年米マイクロソフト副社長に就任。ビル・ゲイツ氏と対立し、85年マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。87年アスキー社長に就任。89年、当時史上最年少でアスキーを上場させる。資金難などの問題に直面し、98年アスキー社長を退任。2001年すべての役職から退任。その後、米マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授などを経て現在、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリーディレクター、須磨学園学園長。著書『反省記』

資料室で元気を取り戻す

1986年ごろの話です。
前回述べたように、僕はビル・ゲイツと半導体ビジネスに関する考え方の違いから大喧嘩をし、絶縁状態になってしまいました。
そのせいで郡司さん、塚本さんと僕が設立したアスキー出版は、マイクロソフトとの契約が切れて、約20億円の売り上げを失うことになりました。
しかし郡司さんと塚本さんは僕を責めることなく、「まずはゆっくり休め」といって、当面やることのなくなった僕に、資料室での仕事を勧めてくれました。
資料室といえば「窓際族」が配属される部署と相場が決まっていますが、僕はここで定時に帰って早く寝るという生活を送り、徐々に元気を取り戻していきました。
最初のころは本当に落ち込んで毎日毎晩泣いてばかりいましたが、元気がないときは無理に元気を出そうとしないほうがいい。
それより寝るのが一番だとつくづく思いました。なかなか眠れないかもしれないけれど、ゆっくり休んでいればそのうち元気が回復してくる。
人間にはそういう力が備わっているのだと知ることができたのが、この時期の一番大きな収穫でした。

アスキー社長になる

そうこうするうちに郡司さんが、「社長になったらどうだ?」と言ってくれたんです。
「きみのことだから、何か新しいことを考えているんだろう?」