“スマホ不要”の世界へ。生体認証にすべてを懸ける2人の「技術者魂」

2020/9/29

ライバルか? パートナーか?

──同業他社でもある日立とNECの対談は異例です。生体認証の分野において、どのような関係でしょうか。ライバルですか、それともパートナー?
今岡 研究を続ける上では、切磋琢磨していくべきライバルです。
 一方で、「日本の技術」を世界にアピールしていくという意味でいえば、パートナーだと私は思ってます。
 スタートアップではできない、大企業が何十年もかけて研究開発するからこそ生まれる、イノベーションがあると信じているんです。
高橋 スマホ不要の“手ぶら”な世界を1社で実現することは難しい。日立もNECも日本を代表する大企業だからこそ、実現できる未来があるはず。
 社会変革は早く実行することが重要で、時間をかけていたら海外勢に負けてしまう。
 もし、両社の技術・ノウハウを上手く活用することができたなら、何倍ものスピードで私たちが目指す未来を実現できそうですね。
──今回の対談は、お二人が旧知の仲ということで実現しました。
高橋 はい。10年以上前から学会活動などで、お付き合いさせていただいています。なんせ、生体認証研究の領域はまだ狭い世界ですから。
 今岡さんは、昔から尊敬している方です。企業研究者として一つの技術を極め、世界No.1まで獲得している。
 しかも、それをNECという大企業の事業の柱にした。さらに、それを世界に広めようとしている。企業研究者の鑑です。
今岡 ありがとうございます。
 日本の技術の存在感が落ちている中で、高橋さんのように世界で戦える技術(PBI)を開発できる研究者は大変貴重です。
 それに高橋さんは元々、暗号技術を研究されていたんですよ。
 暗号技術の専門家は数学で厳密に課題を解くのがカッコイイと思っていて、生体認証なんて曖昧なものを研究しようとは思わない。でも、あえてそこに踏み込んだのがユニークなところ。
 高橋さんはセキュリティの専門家で、私は生体認証の精度を高めること、つまり利便性の専門家。お互いの領域をそれぞれ極めることで、未来を変えていきたいですね。

「非接触×リモート」がwithコロナのキーワードに

──お二人が実現を目指す未来とは、具体的にどんな世界ですか。 
高橋 財布も鍵もパスポートも、究極的にはスマホさえ持たずに済む世界です。
 例えば、皆さんが海外へ旅行する場面をイメージしてみましょう。家を出て空港まで交通機関を利用する際は、改札で顔や静脈を読み取れば電車に乗れる。
 空港でもパスポートやチケットなしで搭乗できるし、到着した空港でも入国審査は顔パスです。街中へ出て買い物や食事をしたり、バスやタクシーに乗った時の決済も、生体認証で行われます。
 つまり家を出て旅行を楽しみ、また家に帰ってくるまで、すべて手ぶらで済む。
今岡 さらには個人を認証するだけでなく、その先にパーソナライズされたサービスを提供できるところまで実現させたい。
 例えば顔認証でキーを開けて車に乗ったら、その人の身長や体格に合わせた位置にシートがセットされたり、好きな音楽が自動的に流れたりする。そんな未来にしたいですね。
──コロナショックにより、生体認証のニーズや用途に変化はありましたか。
今岡 やはり「非接触」への転換でしょう。
 例えば指紋認証はタッチパネルに指を触れなければいけませんが、特に空港などの不特定多数が利用する場所では、「誰かが触ったものにタッチしたくない」というニーズが高まりました。
 よってコロナ以降は、顔認証や虹彩認証など非接触で本人確認できる技術がますます求められている。これは大きな変化です。
高橋 これまでもその時々の社会情勢や環境を通じて、生体認証技術のニーズは広がりを見せています。その歴史を辿ると、次のようになります。
 昔は生体認証の研究をしていると言うと、「スピード違反した時にとられるアレね」などとネガティブな反応が返ってきたのですが、iPhoneにTouch IDが搭載されたことで「生体認証って便利だよね」というポジティブなイメージが世間に広まりました。
──コロナショックは、iPhoneと同じように生体認証が一気に普及するきっかけになり得る。
高橋 はい。非接触に加え、「リモート」もコロナ禍の変化を示すキーワードです。
 今、医療や教育などを含めてあらゆるサービスのリモート化が加速している。「非対面でどのように本人確認するか」という新たな課題に対する答えとして、生体認証への期待は間違いなく高まっています。
高橋 これまでオンラインの世界では、主にパスワードで本人確認をしていました。でもパスワードを忘れたり、誰かに盗まれたりしたら、本人の同一性を確認できなくなってしまう。
 スマホの生体認証も端末の同一性を確認できるだけで、そのスマホを使っているのが本人かどうかは確認できません。
 よってそもそも認証とは、人間の身体によってなされるべきものである。それが私の認識です。デジタルの世界であっても、体一つあれば自分を証明できるのが認証のあるべき姿です。

もう、やめた方がいいんじゃない?

──お二人は約20年近く、企業内で生体認証の研究開発に向き合い続けています。アカデミアではなく、企業研究者ならではの苦労もありましたか。
今岡 大企業は外野が多いので、色んなことを言われましたね。「なぜ他社に勝てないんだ?」「顔認証研究が生み出す価値は何だ?」と。
 特に2005年頃まではエラー率がなかなか下がらず、社内だけでなく業界全体で「顔認証単体では役に立たない」と言われていました。
 「使い物にならない技術を研究してどうする?」「もうやめたほうがいいんじゃない?」と責められましたし、NECでも顔認証の研究者がどんどん減らされて、一時期は私と新人の二人だけになりました。
高橋 私もリーマンショック後に、チームが自分一人になりました。企業の一部門である以上、どうしても景気や会社の業績の影響を受けてしまうんですよね。
 企業は営利を追求する組織なので、研究者といえども「自分たちの研究がどれだけの利益を生み出せるか」を提示できなければ会社から投資してもらえないし、研究を存続できない。そこが企業研究者の難しさですね。
──今では、日立はセキュリティと利便性を両立する世界初の生体認証技術「PBI」を開発し、NECの顔認証は「世界No.1の認証精度」を実現しています。
今岡 逆に言うと、外野が多いのは実は悪いことじゃないんですよ。
 こちらが生体認証の価値をきちんと説明できれば、味方になってくれる人が増えるので。私も会社のエライ人たちにどんどん説明に行って、時々は心をへし折られましたけど。それでも「自分に何かできることはないか」と言ってくれる人が出てくるんです。
 おかげでかつて数人だった研究グループが今ではバイオメトリクス研究所という組織になり、生体認証を扱う部門が国内外にできました。
高橋 今では、NECの生体認証は世界約70の国や地域でも採用されていますよね。
今岡 はい。研究者ではありますが、自ら海外に足を運び、さまざまな分野の世界中の顧客と話すことを大切にしてきました。世界中のニーズを肌感覚で理解することで、技術開発のヒントになることもあるんです。
 技術開発と並行して大変でしたが、研究だけで終わらせたくない、研究成果を世に出したいという、イノベーションへの情熱が行動原理になっていましたね。
高橋 私も研究に共鳴してくれるたくさんの人たちに助けられました。実は、チームが一人まで減らされた後、部下は会社を去り、私も辞めようかと悩んでいたことがあって。
今岡 えっ、んなことが。
高橋 はい。でも、かつての上司の紹介で、あるグループ会社の方々に研究中のPBI技術を紹介する機会をもらったんです。
 そこで、技術ビジョンに共感してくれた人がいて。昼夜語り合い、勢いで複数の事業部を巻き込んだプロジェクトを立ち上げるに至りました。
 いつしか研究予算が付くようになり、それをテコにある国立研究所に再就職した元部下との共同研究を立ち上げるまでになった。
 彼もまた、日本を代表する優秀な研究者を巻き込んで熱心に協力してくれました。こうしてついに、初の実用化にPBIは成功したんです。
 今ではさらに仲間が増え、新たなプロジェクトも始まっています。一生懸命説明すれば理解してくれる人が必ず見つかる。
 まだ世の中にないイノベーションを生み出すためには、いかに人を巻き込み仲間づくりができるか、その重要性を学びました。
今岡 分かります。それに多少の苦労はあっても、やっぱり生体認証がすごい技術だと心から信じているので、諦められないですよね。
 次々と出てくる課題を乗り越えるたび、自分の成長を実感できるのも楽しくて。
高橋 掘れば掘るほど新たな発見に出会えて、これが天職だと思えるほど面白い。
 生体認証がもたらす未来を信じ続けられているからこそ、それが研究の原動力になっているんだと思います。

データ主権を個人が取り戻すためのテクノロジー

──生体認証普及の最大の障壁はなんですか。
高橋 最大の課題は、プライバシーなど人権問題への懸念です。
 現に今も各国で個人情報に関する法規制が議論され、米国やEUでは顔認証がやり玉にあげられています。
 この流れを受けてサンフランシスコでは公的空間における顔認証が禁止され、IBMやGoogleは警察などの公的機関向け顔認証技術の開発をやめる方針を示しました。
 急速に技術が発展した結果、プライバシー侵害や差別が助長され、ディストピアがもたらされるかもしれない。
 ならば技術そのものを禁じてしまおう、そう考える人が一定数いるということです。
 これは私たちが乗り越えなければいけない課題。利便性とプライバシーを両立する技術を創ることは研究者としての使命であり、PBIを開発したのもそのためです。
 PBIは生体情報を「公開鍵」という安全な情報に不可逆変換して認証します。生体情報は送信されず、どこにも保存されないため、盗まれたり悪用されたりする心配がありません。
今岡 生体認証普及のためには、粘り強く対話していく必要もありますよね。
 しっかり議論してこの技術を使うべきところと使うべきでないところのラインがはっきりすれば、むしろ生体認証は今以上に普及していくはず。だから私はこの課題をポジティブに捉えています。
高橋 さらには「個人データが誰のものか」という“データ主権”についても世界中で議論されています。
 メガプラットフォーマーが大量の個人データをマネタイズしてきたことへの反動として、「データは個人のもので、企業が勝手に使うべきではない」という論調がある。
 一方、コロナ禍によって「社会の利益のためなら、移動履歴や接触履歴などの個人データを国家や企業が本人の同意なく使っていいのでは」という議論も出てきた。
 ただ少なくとも先進国では、「データ主権は個人の基本的人権である」という立場が今後も尊重されるでしょう。
 そして個人がデータを管理するための技術として、生体認証が必要とされるはずです。
 「このデータは本人の同意をもって受け渡している」と証明できるのは生体認証だけであり、個人の権利を私たちの手に取り戻すためのキーテクノロジーになる。そう確信しています。

もう、パスワードはいらない

──生体認証が私たちの生活に定着するのは何年後でしょうか?
今岡 あと5年で実現したい。
高橋 同じ感覚です。例えばオンラインの世界で、現在パスワードで本人確認しているものを半分以上、生体認証に置き換える。これは5年くらいでやりたいですね。そして10年後には、パスワードを完全に撲滅したい(笑)。
今岡 10年あれば世の中は驚くほど変わります。すでに成田空港では顔認証技術を用いた税関検査場電子申告ゲートでの運用が始まっていますが、これも10年前なら考えられない話です。
 当時は生体認証といえば、世間では「そんなことができたら面白いね」くらいの認識でした。それが今では生活インフラである交通に導入されようとしている。これはものすごい進歩です。
高橋 すでに中国の深センや上海では顔認証で地下鉄に乗れますし、街中でも多くの店で生体認証による決済が可能です。
 今後は日本でも交通やリテール、金融などあらゆる生活インフラに生体認証が導入されて便利な世の中になる。
今岡 人間が人間である限り、毎日使うのが顔ですよね。顔認証は人間の根源的な課題であり、深く掘るべき技術だと確信しています。
 人間の生体情報は観測するたびに揺らぐし、その揺らぎ方をモデル化できるかというと、それも難しい。生体認証なんて曖昧なものを研究する面白さを分かちあえる仲間として、高橋さんと夢の実現を目指して切磋琢磨していきたいですね。
高橋 ありがとうございます。私たちが目指しているのは、一度だけ初期登録すれば、あとはワンストップであらゆる場面において「手ぶら」で安心・安全にサービスを享受できる社会基盤の実現です。
 自分の体一つあれば、初めて受けるサービスでも自分の身元を証明できる。それを、プライバシーやセキュリティと両立した形で実現する。
 一歩間違えれば、監視社会に向かいかねない力を持つ生体認証技術を、正しく社会に普及させていくことが一番大事で、PBIはそのための技術でもあります。
⽣体認証が変える世界に向けて、これからもお互いの領域を極めつつ、日本発の社会インフラの変⾰を⽬指す仲間としてベストな関係を続けていけると良いですね。
(編集:君和田 郁弥 構成:塚田 有香 撮影:竹井 俊晴 デザイン:小鈴キリカ)