【10分読書】いま改めて、「資本主義」を問い直す

2020/6/6
本の要約サイト「フライヤー」とコラボし、毎週土曜日に話題のビジネス本の要約をお届けする「10分読書」。今回は、『資本主義と闘った男』(講談社)だ。
ぜひ、週末のひとときで新たな知識を手に入れてほしい。(4563文字)
30秒で振り返る「経済史」
まずは、宇沢弘文氏(以下、宇沢)が生きた時代の経済学の動向を概観する。1870年代以降、新古典派経済学は、限界分析を確立し、一般均衡理論を築いていった。この理論によると、資源は効率的に配分され、価格は安定し、完全雇用が実現するとされた。
しかし、新古典派経済学が描く予定調和的な市場像は、1930年代の大恐慌による大量の失業をうまく説明できなかった。
そこで新たに台頭してきたのが「ケインズ経済学」である。
イギリスの経済学者、ケインズ(1883~1946年)は、それまでの新古典派経済学を是正すべく、政府による経済への積極的な介入を求めた。それに呼応するように進められたのが、アメリカのルーズベルト大統領による「ニューディール政策」だ。
第2次世界大戦後、戦時の計画経済の実績に後押しされ、ケインズの経済学が、日本をはじめとする資本主義諸国に浸透していった。1960年代前半のアメリカでは、彼の理論を支持する「ケインジアン」の黄金時代を迎えた。
しかし、同国がベトナム戦争の泥沼に足を取られたのを契機に、世界の資本主義は同年代半ばから不安定な兆候を見せるようになった。
そこに現れたのが「新自由主義」という市場原理主義だ。
この考え方を唱えたアメリカのミルトン・フリードマンらは、市場システムへの絶対的な信頼のもと、「小さな政府」「規制の緩和、撤廃」「国営・公営事業の民営化」を掲げた。
そして、市場での競争を阻害するあらゆる存在を批判し、政府の市場への介入を戒めたのである。イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領が一挙にこの経済思想を受け入れた。
(写真:UPI/アフロ)
そのため、1980年代以降、新自由主義の思想は世界中に普及し、現在に至っている。
宇沢のどこが「すごかった」のか
宇沢が若い経済学者としてアメリカに渡ったのは、1956年、28歳のときのことである。専門は当時勃興したばかりの、「数理経済学」という数学を駆使する分野だった。
もともと彼は、東京大学の数学科で特別研究生に選ばれるほどの数学の秀才であった。特別研究生は、助手なみの奨学金をもらいながら大学院で学ぶことができるというステータスだ。
ところが、もともと社会への関心が高く、戦争で荒廃してしまった社会の病を癒やしたいという強い思いを抱いていた。
そんな中、マルクス経済学に心を奪われるようになり、周囲の反対を押し切って数学科の大学院を退学してしまう。
宇沢が在野の研究者として経済学を独学しているときに出会ったのが、数理経済学だ。
思弁的なマルクス経済学に比べて、高度な数学を取り入れた数理経済学は、宇沢の思考によどみなく入ってきたのである。
こうして宇沢はマルクス経済学から数理経済学へと転向を果たした。
宇沢がアメリカで属したのは、スタンフォード大学内の「経済学の数学化」を推進する前衛集団だった。
これを率いていたのが、数理経済学の第一人者、ケネス・アロー(1921~2017年)だ。当時は戦後のケインズ経済学が広く受け入れられていた。
渡米のきっかけは、宇沢がアローに送った論文である。その論文では、アロー自身も解決できないでいた課題が鮮やかに解かれていた。
(写真:Kameleon007/iStock)
驚愕したアローは、無名の宇沢を研究者として呼び寄せたのである。
宇沢は早速数々の論文を書き上げ、「宇沢2部門モデル」の発表により、アメリカの経済学界でも注目を浴び、確固たる地位を築いていく。1964年にはアローのもとを離れ、シカゴ大学に移り、教授に就任。
そのまま研究を続ければ、まちがいなくノーベル経済学賞を獲得するだろうとまわりの誰もが思っていた。実際、共に研究をしていた仲間のほとんどが、やがてノーベル賞を獲得することとなる。
1968年、宇沢は唐突ともいえる帰国を果たし、東京大学に赴任する。経営学の中心地であるアメリカから、僻地ともいえる日本への移動。
これは周囲の仲間からは、キャリアの放棄に見えた。宇沢自身も、その理由を家族にさえつまびらかにしなかった。
いくつか推測できる理由としては、当時のベトナム戦争に対する憤りと、その悲劇に立ち向かおうとしないアカデミズムへの失望。台頭してきた新自由主義(市場原理主義)への反感。そして宇沢自身の生来の社会に対する高い関心が、従来の経済学の範疇に収まりきらなくなったことが考えられる。
かつて黒人の公民権運動指導者マルコムXの演説を聞いた宇沢は、次のような考えを抱いた。
彼(マルコムX)の悲痛な訴えに対して、もし耳を傾けないものがあったとすれば、それは救いようのない倫理的退廃そのものに他ならないとさえ感じられた(『近代経済学の転機』)
こうしたところからも、宇沢の感性や気性、倫理観の高さがうかがえる。
高度経済成長期の「実情」
帰国した宇沢は、東京の様子に驚いた。外側から見ていた日本は、高度成長期を迎え、経済のパフォーマンスも素晴らしいものだった。
ところが、実際の社会は実に貧しいものに感じられたのだ。
1974年に岩波新書の一冊として出版され、ベストセラーとなった宇沢の著書『自動車の社会的費用』は、こうした文章で始まっている。
わたくしは10年間ほど外国にいて、数年前に帰国をしたが、そのときに受けたショックからまだ立ち直ることができないでいる。はじめて東京の街を歩いたときに、わたしたちのすぐ近くを疾走する乗用車、トラックの風圧を受けながら、足がすくんでしまったことがある
宇沢のとらえていた戦後日本の高度成長期とは次のようなものだ。経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、とくに低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのである。
社会的費用とは、市場経済において生じたネガティブなインパクトについて、生産者や使用者といった当事者ではなく、社会全体あるいは第三者が負担させられる費用を意味する。
『自動車の社会的費用』で、宇沢は「歩行者の基本的な権利」として安心して歩ける道路を想定。東京都の統計データをもとに、そのような環境整備にかかる費用を見積もった。
その結果、自動車1台あたり年間200万円の社会的費用に関わる税の徴収が必要だと試算したのである。
(写真:Fujifotos/アフロ)
こうした宇沢の活動や思索の集大成といえるのが、「社会的共通資本」という理論である。これは、経済学の分析手法を踏襲しながら、何でも市場化しようとする市場原理主義に対抗するものとして構想された。
市場経済が深く浸透する社会で、「人間」や「社会」はどうあるべきかという課題意識から生まれたものだ。
宇沢が帰国後大きな関心をよせた具体例として、水俣病がある。これは、経済活動による自然環境汚染の問題であった。
古典的な経済学では、もともと自然環境はいわゆる自由財として、誰でも対価を支払わず自由に使用できるものとされた。
経済活動の水準が低い頃は、それで問題がなかった。しかし、人間の経済活動が活発になるにつれ、大きなほころびが出てきたのである。
そこで宇沢は、私有資本による市場経済を一方におきながら、市場原理主義が及ぶべきではないと考える領域を社会的共通資本とし、それを数理経済学的な手法を使って分析したのである。
宇沢が構想した社会的共通資本のカテゴリーには、次の3つがある。
1つ目は、大気、河川、海洋、森林などの「自然資本」
2つ目は、道路、公共交通機関、上下水道、電力などのソーシャル・インフラストラクチャー、つまり「社会資本」といわれているもの
3つ目は、学校教育、医療、金融、司法、行政などの「制度資本」
こうした社会的共通資本は、利潤追求の対象として取引されてはならないものだ。
これらは社会にとって共通の財産として社会的に管理すべきであり、すべての人々がその果実を享受できなければならない。同時に、国家の統治機構の一部として、官僚的に管理すべきではないのだ。
ではどのように社会的共通資本を管理するのか。そこで浮かび上がってくるのが「コモンズ」という概念である。
日本語では「共有地」と訳すことができる。村落などの共同体が、公共の財産として自主的に管理するスタイルである。
パブリックでもプライべートでもない自治的な形態として管理することが望ましいというのが宇沢の見解だった。
京都会議での「アメリカの脅し」
宇沢は、社会的共通資本の理論の実践として、公害問題と地球温暖化問題に取り組んだ。公害は河川などの自然資本の破壊、汚染であり、地球温暖化は、大気という自然資本の問題である。
また、コモンズという視点から、宇沢が三里塚の農民の支援に注力した時期もある。しかし、社会的共通資本を理論として完成させる機会はなかなか巡ってこなかった。
地球温暖化においては、自らが築いた「最適経済成長理論」という数理経済学の手法を用いて、「炭素税」を算出した。
将来の世代が二酸化炭素の蓄積によって受ける被害を計算し、そこから5%程度の社会的な割引率で割り引いて、現在価値を導き出す。
これにより、将来世代が受ける被害を市場価値体系に組み入れたのだ。そして、そこから得られた二酸化炭素1トンあたりの価格を、それぞれの国の1人あたりの国民所得に比例するように分配する。
これが、単位量あたりの排出に課税する炭素税になる。
この公式は「宇沢フォーミュラ」と呼ばれた。特徴的なのは、炭素税の負担が発展途上国の経済発展の妨げとなる事態を考慮し、各国の1人あたりの国民所得に比例するように工夫をしたことである。
効率性とともに公正性を確保することが狙いとされた。
1990年に発表された「宇沢フォーミュラ」は、ヨーロッパを中心として国際的に高い評価を受けた。しかし、その実現のチャンスと思われた1997年の「京都議定書」において、宇沢の提案は採用されなかった。
(写真:AP/アフロ)
アメリカが、炭素税をテーブルにのせれば会議の席から降りるという脅しをかけたのだ。後年の宇沢は、覇権を振りかざしてやまないアメリカを非難することが増えていく。
同時に、「市場に任せればうまくいく」として平等と公正を考慮しない市場原理主義者を非難した。アメリカに盲従する日本のエスタブリッシュメントにも厳しかった。
宇沢の考える経済学とは、「人間の心を大事にすること」である。その原点は、「一人ひとりの生き様をどのように考えていくか」にあった。
こうした考えに影響を与えたのは、フリードマン以前のシカゴ学派を代表する経済学者、フランク・ナイト氏の次の教えだ。
経済学の研究とは、あくまで、市民の一人ひとりが人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民的自由を最大限に確保できるような社会を実現するという志をもっておこなうものであって、決して政治的権力、経済的富、宗教的権威に屈してはならない
そのために築き上げたのが、社会的共通資本という未完の思想であったが、いまのところ、宇沢の志を引き継ぐ者は現れていない。
(提供:フライヤー、編集:平井啓一朗、デザイン:黒田早希)