【藤野英人】夢一筋。「あったかもしれない人生」を追わない

2020/2/27
「老後資金は国や会社任せにせず、自分でコツコツ備える」という考え方が広がりつつある。この分野の牽引役となってきた一人が、レオス・キャピタルワークス社長の藤野英人氏だ。

12年前に積立型投資信託「ひふみ投信」をリリースし、日本の各地に眠る成長企業を発掘・応援しながら、個人の資産形成をサポートする。「R&Iファンド大賞」の“常連”になるなど実績の評価も定着し、昨年秋には海外株式に投資する「ひふみワールド」をリリース。最新刊『投資家のように生きろ』(ダイヤモンド社)がヒットを飛ばすなど、その生き方や価値観に共感するファンも多い。

過去の自身について「とにかく嫌なヤツだったんですよ」と笑う藤野氏の波乱含みの半生と仕事の哲学を聞いた。(全7回)

異常な働き方は長続きしない

独立する前に、外資系の投資会社に転職することにしたのは、ファンドマネジャーとしての実績と知名度を上げるためと資金を貯めるためという2つの理由によるものでした。
1996年にジャーディンフレミング投信・投資顧問(当時)に、4年後の2000年にゴールドマン・サックス・アセット・マネジメントに移籍。
当時はITバブルの追い風もあり、運用成績は面白いように上がり、32歳の頃には「カリスマファンドマネジャー」と呼ばれるように。嬉しいというよりも、その評価に見合うだけの結果を出さないといけないと必死でした。
その頃は「週に2日徹夜して、年間350日働く」という生活で、私専門の秘書が昼夜張り付くという異常な働き方をしていました。
もともと病知らずだった健康体を過信し、「気合次第でいくらでも働ける」と思い込んでいる“超ブラック体質”。
さらには周りに対しても「疲れたからって、なんですぐ風邪引くの?」と冷たい目を向けるような、かなり嫌なヤツでした。
しかし、その方法が間違っていることは、自分自身の体が教えてくれました。
突然の喘息発症。死ぬかもしれないという苦しみを味わってようやく、私は「このままでは長続きしない。仲間も離れていく」と気づくことができました。
会社を担う立場となった今では一層、サステナブルな働き方を第一に考えるようになりました。

ビッグチャンスに迷う

転職に関して、一つだけ「あれが大きな岐路だったかもしれない」と何度も思い返す決断があります。
ゴールドマン・サックスへ移るのとほぼ同時に舞い込んできたあるビッグチャンスを、私は断ってしまったのです。