【末續慎吾】なぜ「10秒の壁」は次々と打ち破られるようになったか

2019/11/27

天才ではない者たちの躍進

9秒台はどうすれば出せるのか。
ここ数年「10秒の壁」を破る日本人選手が続々と現れています。
かつて、この壁は「天才」のものだと思われていました。天賦の才能や体格、努力して得た技術……それらを「再現することができる者」こそが天才で、彼らがそれを破るのだ、と。
しかし、当たり前ですが天才はそう多くいません。
では、なぜ今になってこれほど競技レベルが上がってきたのでしょうか。天才が多く現れるようになったのでしょうか。
現在の短距離界において注目すべきは、「天才ではない」選手もこの壁を突破する、もしくは肉薄しているところです。
つまりかつて「天才しかできなかったこと」を「天才ではない」選手が実現できるようになっているわけです。
今回はその背景について探ってみたいと思います。
末續慎吾:1980年生まれ、熊本県熊本市出身。2003年6月の日本選手権で200mの日本新記録を樹立(20秒03=現日本記録)し、同年8月、フランス・パリで開催された世界陸上の200mでは銅メダルを獲得。同種目で日本人初のメダリストとなる。さらに、2008年北京五輪では4×100mリレーで銀メダルを獲得。今も現役を続けながら、スプリント理論の探究を続けている。
デジタル化の波は、当然ながらスポーツ界、陸上界にもやってきました。データや動作解析の発達がその例です。
そして、9秒台を出したスプリンターたちの実例もたくさん集まってきました。
「走る技術」「道理」は確立されたと言ってもいいと思います。
スタートから走り出す角度は何度がいいのか。走る姿勢はどのくらいの角度がいいか。脚はどこからどこへ、どのように着地すればいいのか……。
みんな分かっています。
それをいかに再現するか。「パチパチ」と合わせていくことができるか。
セオリーとまで呼べるかは分かりませんが、少なくとも「9秒台」というものに対して、手探りの状態ではなくなったのは確かでしょう。
そもそも走ることというのは、僕が9秒を目指していた頃からある程度極まっていたと思います。100パーセント「その道理に当てはめられるか」が勝負の分かれ目であって、何か新しいものを探し続ける必要はない。手探りをすること自体が遠回りだったのかもしれません。

「走る道理」を作った偉大なるスプリンター

この道理を作ったのは、かつて100Mの日本記録保持者であった伊東浩司さんでした。
1998年に10秒00を出し、アジア最高記録を出した記録に残るスプリンターです。しかし、伊東さんの功績は、それだけではありませんでした。伊東さんは、自分の体を使って日本人、いやアジア人における「最速で走る方法」を確立したのです。
それは「膝を上げない」という走り方です。
僕は、ここでスプリンターとしての走り方、いわゆる「How to」は完結したと思っています。
膝を上げない、と書きましたが実際にその走りを見れば、しっかりと上がっていると思います。
これは体内に存在しているスプリンターの感覚だと思うのですが、「自分は膝を上げていないと思っていても上がっている足」というものがあります。
例えば、速く走るための肘や膝などの角度は90度がいいと言われています。これは疾走時もっとも身体が重力をもらいやすい角度です。これが90度以上でも以下でも、力をもらうことができません。
それにどれだけスプリンターが持つ「個性」(体の作り、例えば骨盤の角度など)に当てはめていけるかが重要です。
これはカール・ルイスの時代から続いていて、伊東浩司さんはこの法則を日本人の体に合わせた理論体系として作り上げました。
みなさんの体内感覚にもある通り、実際は膝が上がった方が速く走れます。
でも、伊東さんの理論を実践すると、膝が上がっている感覚がないのに、上がっているという状態を作り出せます。
そもそも膝が上がっているという感覚というのは、体の重心より上に膝があることで「上がっている」というふうになります。
ですから、重心がそもそも低く筋力も発達していない幼少期は、ある程度「上げさせる」ことが必要です。
けれど、歳を重ねて体が発達し、筋肉量が増えていけば、角度が付いていきます。そうすれば、重力がもたらす地面からの推進力が働く姿勢で、もっとも骨盤周りに力が入る瞬間を再現できれば速く走れる。
上げる、という感覚が必要なくなるのです。
伊東さんはそれに気づき、この骨盤周りを徹底的に鍛えることにしました。
抗重力筋と言います。漢字のごとく、重力に対して姿勢を保とうするときに働く筋肉になります。
陸上選手の筋肉は、足だけでなく上半身の筋骨隆々ぶりが注目されますが、そもそも大胸筋などを使うことはありません。ボルトのような上半身は必要ないのです(伊東さんの大胸筋はふにゃふにゃしていたくらいです)。
伊東さんは、この抗重力筋を鍛えるために、初動負荷理論(野球選手のイチローさんなどが取り入れたことで有名です)を使い、骨盤に重心を乗せるという走りを実現させました。
あの走りをできる人はいません。
そして、僕はこの技術体系は世界で一番だとすら思っています。
というのも、ネグロイド系の外国人選手たちに比べて、日本人の骨盤は傾いています。何もしなくても、骨盤がその角度に入っているわけです。
近いのは動物です。動物も骨盤が地面に対して真横あるいは傾いています。重力による推進がダイレクトに働く走り方。四つ足の動物が、人より速いのはそういうことです。
このことを想像するときよく思うことがあります。「足が速くなること」というのは進化ではなく、退化なのではないか、と。無理やり角度を変えて、動物に近くしているわけですから。
と、これはまた考えてみるとして、つまりこうした理論はすでにかなりレベルの高いものが出来上がっていて、ここに技術を加えて「パチパチ」できていけるか、という勝負になる。
僕はカール・ルイスの師匠であれるトム・テレツに師事したことがありましたが、彼がこんなことを言っていました。
「この技術は、ネグロイド系の人もでできないスプリンターが多い」
僕が日本技術体系が世界一だと言う根拠の一つです。

アスリートとして必要な姿勢

前回のコラムで、アスリートは立体的に生きていく必要があるのではないか、という考察をしました。
末續慎吾が考える「これから強くなる」アスリートの条件
スプリンターを例にとれば、あるときまでは平面的にひたすら走り続ける段階が必要ですが、あるときからは立体的であらねばならない。そうでないと、社会的に認められ、かつ自身が幸福を感じるアスリートになれない。逆に、それができたときこそ、強いアスリート=表現者になれる、と。
これは僕自身が体験してきたことでもありました。
2004年、アテネ五輪。僕は、前年の世界陸上で日本人初となる銅メダルを獲得した200Mを回避し、100Mに勝負をかけました。結果は、2次予選敗退でした。
あのとき、僕は逃げたんです。100Mに。
少し、時間をさかのぼります。
世界陸上より以前、大学時代の僕は、両親の離婚や父との死別で日々の生活もおぼつかない状態でした。人より速く走らなければ「食っていけない」。深夜まで皿洗いをし、練習時間を確保しなければいけなかった。ある意味、殺伐とした気持ちで、陸上に取り組んでいました。
とにかく前だけを見て少しでも速く走ろうと努めました。それは、純度は低いものの、平面的に「走ること」に取り組んでいる時間でもありました。
そして、銅メダルを獲れた。
すると色々なものが変化します。
銅メダルは、人から見れば輝かしいものでした。それは、僕自身にとってもそうです。自分の欲求を超え満たされた気持ちもありました。
生活ができるようになって、社会的にも認められて、走るのが好きだから走る。でも、そこに見出せるものは何もなかったのです。
何を目指しているのかわからない状況でした。
それでも走ることをやめませんでした。もっと速くという思いも変わりません。
ただ、平面的であることの意味は変わっていました。
「このまま勝った、負けたを繰り返すのか……」
もっともっと高いレベルで戦えるというまっすぐな思いは、永遠に続く水平線のようでも、終わりのない修羅の世界のようでもありました。
怖かったんだと思います。そうして僕は100Mに逃げたのです。
それは、アテネ五輪が終わって、より顕著になりました。この4年後、北京五輪では100M×4リレーで銀メダルを獲得できましたが(当時は銅メダル)、その結果すら自分にとって納得できるものではなかったのです。
ここから僕は陸上の表舞台から消えていくことになります。
本来であれば、銅メダルを取った後こそ立体的な思考に変化すべきときでした。
それができなかった理由は明白です。一人だった。自分も周りも、未熟だった。
大きなことを成し遂げ、そこからたった一人で強いアスリート=表現者となることは不可能です。
人と一緒に助け合いながら、お互いを高め合うことで二人になり、社会的意義を感じることで三人となる。一人称から二人称、三人称へのステップです。
冒頭で指摘した伊東浩司さんは決して短距離の天才ではなかったと思います。
才能だけで言えば、もっとその可能性をひめたスプリンターがたくさん存在しました。その伊東さんが、あれだけの実績を作られ、そして世界に誇れる理論体系を構築されました。
そうしたものへの理解も「立体性」があってこそ生まれてくると思います。
アスリートしての「三人称化」はいつまでも大きな命題であります。
(構成:黒田俊、デザイン:九喜洋介、小鈴キリカ、写真:TOBI)