【教養】生存バイアスから学ぶ。見えないものを見る「習慣」
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注目のコメント
このシリーズ、今回初めて読みましたが、わかりやすくまとめてくれていて面白かったです。
読んでいて、様々なビジネスの場面で、特にマネジメントセオリーにおいて、因果関係と相関関係の読み間違いを思い浮かべました。
具体例として、もはや古典となっているコリンズとポラスの『ビジョナリー・カンパニー』などは典型的で、「理念の浸透度が高いとモチベーションが高まり、それによってパフォーマンスが上がる」というロジックを展開しましたが、この記事で指摘する問題をはらんでいるのは言うまでもありません。パフォーマンスが高いからモチベーションが高まり、理念への信頼度も上がっているという逆の因果も十分考えられるのに、それを見なくなるのは生存バイアスの力でしょう。あまり色々なマネジメントセオリーをあげつらうと、日本でもかなり人気のものを次々と指摘することになりますが・・・。
でも、どうして我々は生存バイアスにとらわれるのか、単にそれはバイアスと言って批判するだけでよいのか、というのはもう一歩自分なりに考えたいテーマだといつも思っています。
なぜそれらが、論理的にはおかしくても普及するのか。それには一定の意味があると思うのです。バイアスというのは、認知の偏りを意味しますが、我々はバイアスがあるから認知できるという点も忘れてはなりません。偏っていない人間などいませんので、自らの偏りがいかなる意味を持っているのかを考えられると、こうした議論の価値をもう一段高めるものになるだろうと思いました。この連載では、定量データ分析に関する典型的な注意点にフォーカスして、身近な例を用いて平易に解説していきます。
数字(定量データ)なくして、事実や真実は把握できません。ただ、数字がある場合でも、事実や真実が容易にわかるわけではない。
むしろ、計量の仕方、用い方によっては、その数値に引きずられてしまい、実態の理解から遠ざかってしまうこともあり得ます。
いまはビジネスにおいても、データドリブンの重要性が増してきていると思います。そのようなデータが豊富にある環境下であっても、よい分析を導くことはじつは意外に難しく、世間一般での印象よりもセンスが問われるものでもあります。
数字(定量データ)があることで安心してしまい、安易な分析をしてしまったり、解釈が理に適っていないようでは、重要な場面で大事な意思決定を誤ってしまいかねません。
取り上げるものの多くは、私が実際にミスに直面し試行錯誤を重ねながら感じ取り身につけてきたものですが、肩肘を張らずに出来るだけ楽しく気軽に読んでいただけるようにも砕心しました。
第4回の「生存バイアス」は、定量分析の泣き所のひとつで、統計のプロでも一般のビジネスパーソンにとっても逃れることが難しいものです。
目の前にあるデータは事象のすべてを語っているようで、じつは生き残った事例(生存者)しか扱っていないことが多く、しかもそのことに気付けないことも本当に多いのです。
「企業の成功要因の分析」といったもので上場企業を対象にリサーチしている場合などは注意が必要でしょう。
バイアスをきれいに排除することは難しいですが、バイアスを自覚できれば、その方の意思決定の熟練度は一段深まると思います。
今回の原稿がそのきっかけになれるようでしたら望外の幸いです。この記事で紹介されている「生存バイアス」に限らず、世の中の統計データはバイアスに満ち溢れたものです。バイアスは、そもそも見えていなかったものもあれば、わかっていながら取り除けないものもあります。
そしたら何も信じられないじゃないかと思われるかもしれませんが、「落とし穴」が起こる場所というのは決まっており、お作法を身につければ、示された統計にバイアスがないか、許容できるレベルなのかを比較的簡単に見抜くことができるようになります。
このようなバイアスを見抜くcritical appraisal(批判的吟味)は、どのような統計でも、示されたデータの解釈を始める前に必ず行うべきプロセスです。
なお、プロ野球選手と医師の例で用いられている「生存確率」は、母数を一般人口とすると見誤るかもしれません。目指すというところを出発点にしているため、母数は一般人口ではなく、「目指す人」としなければ、前提条件と異なってしまうでしょう。例えば、高校野球をやっている子と医学部進学塾に入っている子の人数をそれぞれ母数にした方がより親の求めている期待値に近似するのではないかと思います。