本当に医者が死なせたのか?「人工透析中止」問題で続く“偽善報道”への大いなる疑問(山田順)
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大切なのは患者さんの意思ですが
「あなたは今の仕事を続けたいですか?」という問いに収入面であれ人間関係であれ家族との時間のことであれ0.1%も迷いなく、また定年を撤廃するから死ぬまで続けるかと言われて決められる人がいるでしょうか?
あなたが透析を受ける。最愛の人が透析を受ける。どれだけ想像できて、どれだけはっきり何か言えるでしょう。医療者の私でも全く迷いもなく答えることはできません。
透析中止は死の宣告であり悪である。という一方的な意見には納得しかねるものの、医療の現場を知らない人が知ったように話すのは誤解を招く恐れを感じます。もちろん非医療者でも、その立場その立場で言いたいことを言って議論をすれば良いのですが、メディアやSNSで増幅されることは意識していただきたいと思います。
末期腎不全の方が透析をやめれば死にます。
そもそも透析は中止なのでしょうか?「次の透析は受けたくない」と考えれば差し控えです。人工呼吸器をつけたくないといった差し控えは日常的に行われています。
患者本人の意思が最重要であるのは間違いありませんが、気持ちというのは0/1で割り切れませんし、また変わることもあります。
書面に書いたからその通りにして良いものでもありませんし、変更できないものでもありません。一般の契約書のようなものとは全く違います。
ガイドラインは道しるべであって守らなければいけないものではありません。
移植がゴールで透析は延命なのでしょうか。透析をしていても、さほどしんどいとは思わずに通われている方もいます。また移植は治療のゴールではありません。腎機能は正常化するものの、免疫抑制剤を飲み続けながら拒絶と感染と戦っていくことになります。
(これは人工心臓で寿命を全うする治療が日本でも始まろうとしている中で、どう受け止められるのか気がかりです。)
個別例において対応が適切であったのかという議論、及び、今後どのような対応が適切とされるのかには注視していこうと思います。
患者さんのための医療をしても罪となることもありますし、またそもそも何が患者さんのためなのかわからないことも非常によくあります。答えのない中で最善を探し続けること、またそのような責任のある現場にいることも再認識しながら、それでもやりがいを感じながら希望をもって仕事を楽しみたいと思っています。死にたいとか死にたくないとか以前に、苦しむのは嫌だという意識があるのだと思います。それは当事者でなければなかなかわからないことであり、実際にそうなってみれば、死にたいのか死にたくないのかはどうでもいいという心境になるかもしれません。
つまり、自分の「命」の行方よりも優先したいことはありうるということ。安楽死の問題も、命の問題というよりも、苦しみの問題ととらえたほうがいい。