仕事においてはわれわれが学ぶのは、ただ知識を得るためではない。学習によって変化することで、自らのアイデンティティーを形成するのだ。

学習する組織、学習する個人

経営学の教祖的存在であり、『学習する組織:システム思考で未来を創造する』(邦訳:英治出版、原題:Fifth Discipline)の著者でもあるピーター・M・センゲは、企業は学習組織だと主張した。しかし、時代はまだ彼に追いついてはいなかった。
30年後、その示唆に富む概念は一般常識となった。組織が活気づき、長く存続するには、学ぶ能力が不可欠だと考えられている。さらに、魅力的な学習機会を提供しなければ、組織は最高の人材を獲得し、つなぎ止めることができない。
組織と同様に、個人も学び続けることを求められている。変化の激しい時代には、専門知識はすぐ時代遅れになり、陳腐化してしまうためだ。つまり、組織と個人の両方にとって絶えず学ぶこと、生涯にわたって学ぶことが不可欠ということだ。
いますぐ始めるにはどうすればよいのだろう。学習の基本原則を9つ紹介しよう。これらの原則に従って学べば、将来役立つ何かが身につくはずだ。

1. いつでも、どこでも学ぶ

生涯にわたる学習は、毎日の学習から始まる。つまり、どんな学習であれ、簡単かつ単純で、日常業務やワークフローに継ぎ目なく組み込まれなければならないということだ。
もちろん、専門家による講座やワークショップ、研修はひらめきや異なる視点をもたらしてくれる。しかし、新しい洞察や認知能力、感情的能力を自分のものにしたい場合、鍵を握るのは実地体験や定期的で小規模なタッチポイントだ。
航空機メーカー、エアバス北米部門の「リーダーシップ・ユニバーシティー」を率いるルイーズ・カイル=トリオロは「指数関数的なリーダーシップ」を提唱している。指数関数的に進化する技術によって、既存の業務が破壊的に革新される現状に対抗できるリーダーシップだ。
カイル=トリオロによれば、学習とは「わざわざ」何かを行ったり、プログラムに参加したりするのではなく、いつでもどこでもできることであるべきだという。
実際、もっとも価値のある学習は組織の外側で生じることが多いと、カイル=トリオロは話している。だからこそ、組織の緊張感を保つために「シンギュラリティー・ユニバーシティー」や「Xプライズ財団」と協力関係を結んでいるのだ。

2. 立ち止まって考えるための「空白」をつくる

マーティン・A・チセルスキーは、ドイツのベルリンにある「スクール・オブ・ナッシング」の「ナッシング責任者」だ。
この学校は、建物もカリキュラムもなく、スタッフもいない。何もない「無の存在」であり、それこそがポイントだ。けっして悪ふざけをしているわけではない。従来の学習方法に異議を唱えるための芸術的挑発なのだ。
チセルスキーは、学習が生じるのは未知においてだという事実に注意を向けさせたいと思っている。つまり、長年の信念や古い習慣を手放し、予想外の物事に心を開いたときに、学習が起こるのだ。
情報があふれる現在の文化、なんでも知っている物知り(になりたがる)文化においては「空白」を見つけることはどんどん難しくなっている。チセルスキーはスクール・オブ・ナッシングを通じて、頭の中のハードディスクを消去し、白紙状態になることの価値を伝えたいと考えている。
作家のダヴ・シードマンは次のように述べる。「一時停止ボタンを押すと、機械は止まる。しかし人間の場合は、一時停止ボタンを押すと、動き始める」
カフェイン・パートナーシップのCEOで『Superfast──Lead at Speed』という新著を出版したソフィー・デボンシャーもこうした意見に賛同し、現代のリーダーはある明白な矛盾を受け入れなければならないと強調する。つまり「ゆっくり考え、素早く行動する」という矛盾だ。
さらに現代のリーダーは従業員に対しても、このスローガンに従う権利を与えなければならない。
超高速で学ぶのではなく、考えるための十分な時間、自分と向き合い、直感力を磨くための十分なスペースを与えられて初めて、従業員は自分の決断に自信を持ち、すべてのデータが手元になくても、素早く動くことができる(実際、従業員が入手できる情報はいつも不十分だ)。
そのため、洗練された学習組織は、集団ごとに異なるペースを巧みに使い分けると、デボンシャーは述べる。
まさにこれが、個別学習の意味するところだ。手取り足取り教えるのではなく、組織の一人一人が自分のペースで学ぶことができるようにしなければならない。デジタル化のプレッシャーを受け、必死に食らいつこうとしている企業では、この点があまりにも忘れられている。
たとえば、従業員を新しい環境に慣れさせるため、アジャイルな働き方のセミナーを受けさせることはできる。しかしそれは、従業員が自分自身で、アジャイルさの意味を発見するほど効果的ではない。
組織は知識を押しつけるのではなく、従業員がそれぞれのタイミングで知識を身につける時間を与えるべきだ。学習とは一つの活動ではなく、マインドセットなのだ。

3. ゲーム化ではなく、実際に遊ぶ

ゲーミフィケーションは、職場の最新トレンドだ。しかし、批判もされている。内在する構造的・文化的な問題を覆い隠しながら、従業員を一時的な行動変化へと導くだけの手法、つまりソーシャルな管理を行使する手法だと批判されているのだ。
こうした人たちの主張によれば、自分自身や他者についての何かを本当に学びたければ、ゲーム化ではなく、本当に遊ぶべきだという。
遊びとゲームの違いは「愛している」と「好き」の違いのようなものだ。遊びはリアルだ。遊びには課題はあるが、目標はない。「望ましい結果」はあっても、それをコントロールしようとする姿勢はそれほどない。
自身の会社ヴァイ・カイ(Vai Kai)で幼児教育用のデジタル玩具をデザインしているユスティナ・ズブリツカは、遊びはとは目的を達成するものではなく、想像力や探究心に従うものだと主張する。
ズブリツカによれば、われわれ大人も遊びを通じて、子どものような能力を引き出すことができる。すでに忘れ去っていた、または無視していた深遠な創造力が示されることも珍しくないという。
ボストン・コンサルティング・グループが2018年に発表したレポートも、即興や想像力、ひらめきという「遊びの中核的な要素」は、予測不能で影響されやすく相互依存的な現代のビジネス環境で重要性を増していると主張している。
レポートでは「Play-Doh」や「Google Maps」といった多くのイノベーションが遊びから生まれていることを指摘している。また企業に対しては、遊びをビジネスの不可欠な一部にするため、遊びのリスクを減らすこと、目標を保留すること、職場に遊び場をつくることを提案している。
われわれは遊びを通じて、現実と異なる世界やアイデンティティーを試したり、「もし~だったら」という課題を直接体験したりできる。学習の本質が学ぶことだとすれば、遊びの本質は勝つことではなく、遊ぶことだ。

4. 学んだことを共有する

いわゆる「教えることで学ぶ」効果は、複数の研究によって証明されている。学んだことを教えるために時間を使った学生は、同じ時間を再学習に使った学生に比べて、理解も知識の保持も勝っていたという。
だからこそ、賢明な組織はメンタリングやリバース・メンタリングを奨励したり、参加者が新たな洞察を言語化し、口頭や文章、または即興で同僚たちと共有するプログラムを考案したりしているのだ。
小売企業オットー・グループの経営幹部研修プログラムでは、そこで学んだことを6分間にまとめ、全従業員の前で発表することが求められる。会議の参加者に、要点を発表させたり、ブログを書かせたりする企業もある。
知識を具体化して伝えるという考えは、職場でのコラボレーションの手法として人気がある「ワーキング・アウト・ラウド(WOL)」の本質でもある。具体的には、従業員が定期的に少人数で集まり、いま取り組んでいることを共有したり、個人の目標達成の手助けを求めたりする。
こうした手法は世界中の従業員の琴線に触れたようで、ドイツからブラジルまで多くの組織が採用している。この成功は、シンプルだが重要なある事実に基づいている。学習は社会的なものであり、学習が生じるうえでは信頼関係が必要という事実だ。

5. アマチュアになる

「アマチュア」という言葉の起源は、ラテン語で恋人を意味する「アマトル」だ。これは筋が通っている。なぜなら、恋に落ちるときは互いをよく知らず、情報不足なためだ。
学ぶときも、すでに知っていることを忘れなければならない。知識を捨て去り、未知の世界に飛び込む必要がある。その原動力は、自分にとって重要な何かを発見したいという好奇心や欲求のみだ。
学習は、人生を変えるものでなければならない。人生が変わらないのであれば、なぜそれを学びたいのだろうか。そのため、学習はというものは極限的な状況で起こることが多い。そして学習とは、つねに個人的なものだ。
デジタルマーケティング企業シジジー(Syzygy)は、経営幹部たちをアルプス山脈の「ベースキャンプ」に送り込む。そこは、快適さとはほど遠い納屋であり、経営幹部たちは状況に対処し、チームとして団結しなければならない。
また、フューチャーシフト(FutureShift)は若手リーダーを対象に、本社から遠く離れた異国での探検を企画している。現地に到着したらまず、地図の読み方を学ばなければならない。

6. 畏怖の力を利用する

われわれが体験を通じて学ぶことは、すでに広く知られている。五感を駆使しているとき、無我夢中になっているとき、普段の行動と違うときはその傾向が強い。しかし、こうした体験において、畏怖が果たす役割はあまり知られていない。
科学ライターのジェッサ・ギャンブルは畏怖について「恐怖または驚嘆の念が、尊敬と入り交じった感情」と定義している。ギャンブルによれば、畏怖研究という比較的新しい分野があり、畏怖には「自己を小さくさせる」効果があることがわかっているという。
われわれは、畏怖に圧倒されることで「われわれが存在する、より大きなコンテキスト」を理解できるようになる。畏怖は超越の瞬間を生み出し、そうした瞬間が自分より大きな何かの一部になりたいという思いを強める。われわれは謙虚になり、視野が広がり、そして学び始める。
自然、見事な芸術作品や建築物、人の心をつかむ映画や演劇、英雄的な行いの物語などにさらされることで、畏怖は生まれる。
ギャンブルによれば、畏怖には2つの重要な要素があるという。広大さの認識と「適応への必要性」だ。後者には、世界についてより多くを学ぶことで、広大さを解釈したいという欲求が含まれる。
中世に建築された英国オックスフォードの「夢見る尖塔(dreaming spires)」はこの効果を利用しており、現代の学習もそこからヒントを得ることができる。誰かに新しいスキルを教えたいときは、そのスキルに初めて触れた彼らに鳥肌が立つことを目標にしてみよう。

7. ネオ・ジェネラリストになる

『Neo Generalist』の著者の一人、ケネス・ミケルセン(もう一人はリチャード・マーティンズ)は、これからはネオ・ジェネラリストの時代だと断言している。ミケルセンによれば、われわれの仕事人としての人生は、ジェネラリストとスペシャリストの役割が無限に交わり続けるループだという。
ミケルセンの定義では、ネオ・ジェネラリストとは、ジェネラリストとスペシャリストの両面を持つ人物だ。「学ぶことをやめない総合的な人材」、絶えず自己を改革し続けるルネサンス的な男女。どの家庭にもいるような存在ではないが、地理的な場所や専門分野にかかわらず、どの場所にも必ずいると、ミケルセンは述べている。

8. 自分自身を知る

ビジネスパーソン向けの演劇クラスや、演劇的な手法を通してリーダーシップや組織について学ぶ「ソーシャル・プレゼンシング・シアター」「コンステレーション・ワーク」などは、自分の内側を見つめるための練習だ。
自分自身だけでなく、チームや組織、世界における自分の位置づけ、そこに到達した道のりについて教えてくれるこうした手法の重要性が、かつてないほど高まっている。
機械が猛烈なスピードで学習することを学んでいる現在、われわれ人間は、学習の目的は知識を得ることではなく、誰かになることだということを思い出さなければならない。われわれは、学ぶから変化できる。そしてわれわれは、変化を通してアイデンティティーを形成する。
知識がインターネットで手軽にアクセスできる日用品になったいま、自分自身を知ることによって自分自身になることが、われわれに唯一残されたユニークなバリュー・プロポジションだ。
学習はいま、その本来の姿をあらわにしている。つまり学習とは、自分自身を変えることなのだ。

9. 学習とは「目的のある旅」ではない

最後に、学習とは具体的な目的に「たどり着く」という最終目標をもった旅であるという概念を捨てよう。つまり、学習の目標を達成すれば、大きな報酬を得るための緊急課題や適切なビジネス課題に生かすための知識が得られるという概念だ。
学習の目的は学ぶこと自体であり、学ぶ能力を高めることだ。これこそが21世紀の最も重要なスキルであり、人間の本質と言ってもよいかもしれない。
英国の哲学者アラン・ワッツによる人生に関する名言は、そのまま学習にも当てはまる。「人生を旅だと思えば、本質を見失ってしまう。人生とは音楽的なものだ。われわれは、音楽が鳴ると踊るようにできているのだ」
原文はこちら(英語)。
(執筆:Tim Leberecht/Author, "The Business Romantic"、翻訳:米井香織/ガリレオ、写真:kevron2001/iStock)
©2019 Mansueto Ventures LLC; Distributed by Tribune Content Agency, LLC
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with HP.