睡眠学の権威が50代で起業した理由

2019/1/30
人類の寿命が延びているらしい。近い将来やってくる「人生100年時代」。長い人生を良く生きるためには、どんな戦略が必要なのか。この連載では、「ウェルビーイング(well-being)」を研究し、その普及活動をしている予防医学研究者の石川善樹氏と一緒に、人生100年時代のGood Life戦略を探っていく。
 人が心身を健やかに保ちながら充実した時間を生きるためには、「睡眠」が大事な要素だと石川善樹さんは言います。そもそも人はなぜ眠くなるのか? どのぐらい寝たら眠くなくなるのか。
「人生100年時代」におけるGood Life戦略のヒントを得るために、筑波大学・国際統合睡眠医科学研究機構(IIIS)に柳沢正史さんを訪ねました。
1960年、東京都生まれ。85年、筑波大学医学専門学群卒業、同大大学院進学。91年、米テキサス大学サウスウエスタン医学センター准教授兼ハワード・ヒューズ医学研究所准研究員に就任。2003年、米国科学アカデミー会員選出。2010年、内閣府の最先端研究開発支援(FIRST)プログラムの中心研究者。2012年、国際統合睡眠医科学研究機構の機構長就任。敬虔なキリスト教徒でもある。
 柳沢さんは、血管収縮因子である「エンドセリン」や睡眠を制御する神経伝達物質「オレキシン」の発見者として知られます。そして、これまでに紫綬褒章や朝日賞など多くの賞を受賞してきた睡眠学の権威もまた、50歳を目処に人生をシフトさせた一人なのです。
 今年59歳となる柳沢さんが、健やかな人生をどう生きるべきか、睡眠医療の最前線に迫りつつ、じっくりと話を聞きました。

「探索研究」の末にたどり着いた大きな謎

石川 この企画は、人生100年時代に「よい人生=GoodLife」を送るためには、こころ、からだ、つながりの面で充実していることが重要だという前提で、その戦略を探っていくというテーマなんです。
 とは言うものの、予防医学を通していろいろな研究成果を見るにつけ、長い目で見れば見るほど、何が健康に良くて何が悪いのか、よくわからなくなってきたように僕は感じているんです。科学的にそれまでの定説が覆ることも珍しくないですし。
柳沢 お酒にしても、ほんの10~20年前までは、少量なら体にいいと言われてましたけど、今は学説的に否定されていますね。
石川 これは本当に悲しいお知らせですよね(笑)。
柳沢 厳密にいえば、ビールでもワインでも1杯くらいなら問題ないんでしょうけど、それだけで終わるわけがないですからね。
 だから結局、1杯も飲まないのがベストということになってしまう。僕はほどほどに飲んでますけどね(笑)。
石川 また最近読んだ論文でおもしろかったのは、若いときにしっかり苦労して、困難を乗り越えた人のほうが長生きするという報告です。蝶よ花よと大切に育てられた人ほど、年を取ってからの苦労を乗り越えにくい可能性があると。
柳沢 「乗り越えられる程度」のストレスかどうかが大事なのかもしれませんね。乗り越えられないレベルの大きなストレスはやっぱり悪影響。睡眠でいえば、若い頃のちょっとした睡眠不足は体力で乗り越えられたとしても、慢性的に続けば脳にとっては明らかに良くないし、身体も壊します。
石川 いやあ、おっしゃる通りですね。そういえば僕が留学していたとき、先生からよく「君たちには欲しいものが3つあるだろう。それは睡眠と友情と成績だ。でも、取れるのはこのうち1つだけだよ」と言われました(笑)。要は、この3つはトレードオフの関係で、成績を上げるなら寝る間を惜しんで学べということなんですけど。
柳沢 そこはぜひ、3つとも狙ってほしい(笑)。私に言わせればトレードオフどころか、睡眠を充分に取ってこそ成績も友情も獲得できる。知力のためにも人間力のためにも睡眠は必須です。
石川 ですね(笑)。まあ、それは冗談の類いであったにしても、今回はGood Life戦略を考える要素の中で「からだ」の部分、特にそのご専門である「睡眠」について、ぜひお伺いしたいなと。
 まず僕が聞いてみたかったのは、柳沢先生の睡眠研究に賭けるモチベーションの源泉です。なぜ睡眠を研究するのですか?
柳沢 私の場合は、目の前にある「謎」です。学者として当たり前のことかもしれませんが、睡眠にかぎらず、まだ誰も知らないことについて自分なりに新しい発見を得たい。
石川 謎はどのように見つけるのですか?
柳沢 私の場合、研究者としては、いわゆる「探索研究」が好きなんですよ。世間には最初に仮説を立てて、それを追究していくタイプの研究者のほうが多いと思いますが、私はそうではないんです。
 日夜ひたすら、例えば動物の脳を集めてすりつぶし、片っ端から抽出物を検査していく。
石川 何もないところから何かを見つけるタイプの地道な研究ですね。
柳沢 そうです。オレキシンを発見したときは、それが睡眠に関わる物質であるということは、最初はわからなかった。当初はこれが食欲に関与しているかもしれないという論文を書いたんですけど、マウス実験でオレキシン遺伝子を欠損させても、食欲や体重にとくに影響が見られないことが確認され、困ってしまいました。むしろ条件によっては太るくらいで。
石川 仮説に基づく実験をやってみたけど、想定していた結果に繋がらなかったケースですね。
柳沢 では次に何をやればいいのか途方に暮れていたところ、ふと、マウスは夜行性なので、夜間の活動をきちんと目視で観察しようと思いついたんです。
石川 すると、思いがけない発見が得られた、と。
柳沢 そう。夜間にマウスが突然動かなくなる症状を見つけ、これがナルコレプシーという睡眠障害であることに気づいたんです。つまりオレキシンがなくなると覚醒が維持できない。このことからオレキシンが睡眠覚醒を制御していることが判明しました。
石川 それが柳沢先生が睡眠の研究に文字どおり「目覚める」きっかけになったんですね。
柳沢 そうです。それまで直接的には何の関心もない分野でしたから、意外といえば意外なんですけど。オレキシンの論文が出たのが98〜99年だから、私が38~39歳のときのことですね。

睡眠研究に目覚め、50歳目前で帰国を決意

石川 思わぬ発見をきっかけに、40歳を目前にまったく違う分野の研究をスタートするというのは、なんだか運命的ですね。
柳沢 神経科学者としてはほとんど素人の状態でしたから、そこからあらためて文献を検索したり、睡眠学の専門書を読んだり、必死に勉強しました。そこで遅れ馳せながら、睡眠について、科学の世界では驚くほど何もわかっていないという事実を知ったんです。
石川 眠気とは何かがそもそもよくわからないということを、最初に提唱されたのが柳沢先生と考えていいのでしょうか。
柳沢 それはちょっと言い過ぎかもしれません。それ以前から、その点に着目していた睡眠学者は存在するので。私はただ、「眠気の正体」というキャッチーな言い方をしただけです。
石川 ともあれ、結果としてその後の人生を睡眠の研究にあてることになりました。ある意味、この道でやっていこうと覚悟を決めたのが40代ということですよね。
柳沢 そうですね。むしろ、本気で腹を括ったのは2008~2009年くらいですから、50歳目前と言ってもいいでしょう。
石川 まさに「50にして天命を知る」という孔子の言葉の通りですが、先生のキャリアでおもしろいのは、そこで日本に戻る決断をされたことです。
 素人考えかもしれませんが、そのまま海外にいたほうが人もお金も集まりやすく、研究には有利だったのでは?
柳沢 普通はそうなんですけどね。私の場合はいくつかの要因が重なって、その1つが当時の麻生政権がやった、最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)に選ばれたことでした。自分の組織、自分の領域でやっていくには、ちょうどいいタイミングだったんですよ。
石川 柳沢先生にとって、こうして日本に拠点があることのメリットは何でしょうか。
柳沢 本質的にはどこにあってもいいのですが、優れた環境とリソースが与えられているので、それを最大限に生かすなら、今はこのかたちがベストです。それに私の母国語は日本語なので、組織や人間関係の構築にあたって微妙なニュアンスがちゃんと伝えられるメリットは大きいです。あと単純に、やっぱり日本の飯が一番うまい(笑)。
石川 ああ、それは納得です(笑)。それにしても、現在の環境にシフトしたのが50歳前後というのが興味深いですね。
柳沢 アメリカのラボを閉じたのは54歳のときなので、少し遅めですけどね。

不眠に悩む患者のおよそ7割は睡眠誤認

石川 柳沢先生は普段どのくらい睡眠をとっているんですか?
柳沢 タイムオンベッドとして、0時から7時が標準ですね。睡眠学者として日頃、偉そうなことを言っているので、これはできるかぎり守るようにしています。
石川 ということは、睡眠時間は7時間。これには何か理由が?
柳沢 自分に合った睡眠時間を、ちゃんと実験して割り出しました。僕の場合、睡眠がこれ以上短いと少ししんどいし、逆にこれ以上寝てもあまり意味がないんですよ。
石川 それは興味深い。やはり適正な睡眠時間は一人ひとり異なりますよね。
柳沢 基本的に、目覚まし時計を鳴らさなくても自然に起きるなら、十分に眠れている証拠なんですよ。講演でも必ず言うんですが、騙されたと思って1日1時間ずつ長く眠ってみるといいです。平日の5日間を使って実験をしてみてください。すると、睡眠不足の自覚症状を実感できます。
石川 自覚症状というのは?
柳沢 毎日1時間ずつ睡眠を増やしていくと、どこかですっきりと目覚められる日があるはず。睡眠不足の人はたいてい自覚症状がないものですが、平日と休日で睡眠時間に差が生じるのは、睡眠が足りていない証拠ですから。
石川 コーヒーなどのカフェインは、やはり睡眠に影響がありますか?
柳沢 これはタイミングも大きくて、寝る3〜4時間前以内にカフェインを摂取すると、睡眠の質を下げるのは事実です。
 でも僕はコーヒー大好きで、毎日4〜5杯は飲んでいると思います。朝起きてまず2杯分ほどのコーヒーを飲んで目を覚まし、大学でもまた飲む。一応、睡眠学者なので、夕方以降はなるべく我慢するようにしていますが、レストランのディナーコースなどで最後にコーヒーが出てきたときは飲んじゃいますね。
石川 それを聞いて安心しているコーヒー党の人も多いかもしれません(笑)。
柳沢 あまりガチガチにやるのも良くないですから。不眠症の人にはそういうタイプが多くて、「7時間以上寝ないとやばい」とか思い込みすぎて、かえって眠れなくなってしまう。
 コーヒーは数ある嗜好品の中でも唯一といっていいくらい、安全性がちゃんと確認されていますし、それでリラックスできたり気持ちよく暮らせるのであれば、健康面でもプラスでしょう。だから、もう少し緩く考えていいと思いますよ。
石川 先ほど、乗り越えられる程度の軽度のストレスはむしろ健康にいいという話をしましたが、不眠も軽度なものであれば何らかのメリットがありますか?
柳沢 まず大前提として、「不眠」と「睡眠不足」は分けて考えなければいけません。多くの方が混同していますが、眠りたいのに眠れないのが不眠で、眠ろうとしない、つまり充分な睡眠をとらない生活習慣を続けているのが睡眠不足。これは医学用語で「行動誘発性睡眠不足症候群」と呼ばれます。
石川 睡眠不足は自ら眠らない状態なんですね。
柳沢 慢性的な睡眠不足は先ほども言ったように、健康という観点から見れば百害あって一利なし。不眠に関しては急性のストレスが原因になりがちで、例えば仕事で大きなトラブルがあったり、人間関係でもめたり。これは生理的に眠れなくて当たり前なんです。
石川 なるほど。そうですよね。
柳沢 だから、例えば1週間ほど眠れない状態にあっても、そうしたはっきりした原因があるなら病気ではない。もしそこにメリットを見出すとするなら、ストレスコーピングでしょう。つまり、うまくそれが収束すれば、次のストレスに対する耐性に結び付くということ。
石川 問題が解決し、自分の中で消化できればまた眠れるようになりますしね。
柳沢 そうした一時的な不眠は別にして、慢性の不眠症も実は簡単ではありません。慢性の不眠症に悩む患者のおよそ7割は「睡眠誤認」といって、自分がどれだけ眠れているか、正確に評価できていない状態なのです。客観的にはけっこう眠れているのに、自分では眠れていないと信じ込んでしまっている。
石川 睡眠に関して、主観的な評価と実態にずれがある、と。
柳沢 そう。いつも寝入るのに2~3時間かかるという人の睡眠を実際に測定してみると、ものの15分くらいで寝ているようなケースはよくあります。ただ、こうした睡眠誤認も本人にとってはシリアスな問題ですから、不眠症は難しい病気なんです。
石川 しかし、睡眠の状態を客観的に測ろうとすると、病院で様々な器具を使わなければなりませんし、敷居もコストも高いですよね。
柳沢 おっしゃる通りで、そこが大きな問題です。例えば血圧に関しては、オムロンが40年ほど前、世界に先駆けて家庭用血圧計を開発しましたが、これは高血圧診療のパラダイムシフトに繋がる大発明でした。
 睡眠の領域でも同様のパラダイムシフトを起こせないかと考え、私たちは最近、株式会社S'UIMINという会社を起業したんです。
石川 これはどのような事業を行う会社ですか?
柳沢 在宅で、簡単かつ正確、しかも安価に睡眠を解析できるデバイスとAIを開発しています。
 2020年のサービス開始を目指して、医療機関向けの睡眠検査サービスないしは健康経営のためのデータ提供など、B2Bの領域での事業を創っていますが、将来的には、個人向けのサービスも展開できたらとは思っています。
石川 これまでのキャリアと比べると、かなり新しいチャレンジですよね。
柳沢 そうですね。そもそも人を対象とする研究というのが私は初めてに近いので。
石川 仮説を持たない地道な探索研究にしても、60歳を目前にしての起業にしても、先が見えづらい未来に対して、柳沢さんは非常に淡々と挑戦をしているようにお見受けします。
 それってなんだかすごく充実してそうです。その戦略というか、重心みたいなものってどこにあるんでしょう。
柳沢 そうですね。ひとつ、付け加えるとすると、僕、クリスチャンなんですよ。結構真面目な(笑)。まあ、真面目って言っても、ちゃんと日曜日に教会に行きますよ、という程度の真面目ですけど。
 最初に探索研究という地道なタイプの研究だと言いましたが、それってあんまり先のことを考えすぎても持たないんですよね。それは、僕の中の宗教的な要素も関係していて。一生懸命ベストを尽くしたら、あとは自分でくよくよ考えない。委ねると。
 もちろん、ある程度ちゃんと計画を立て、リスクヘッジをし、ベストを尽くすっていうことは、自分なりにやりますけど。
石川 運命論とは違う、人事を尽くして天命を待つ、ですね。それは、Good Lifeの3要素、こころ、からだ、つながりに加えて、「スピリチュアル」の領域かもしれないですね。
柳沢 最後の最後まで、自分の責任だと思っちゃうとね、何もできなくなっちゃう。
 さきほども、「眠れないとやばい」と思い込みすぎると、よくないと言いましたが、やはりやることをやったら、最後は鷹揚さが大事だと思いますよ。
石川 研究もやりながら起業もする。やるだけのことはやって、最後はくよくよ考えない。まさに50代でシフトされた柳沢さんの活動を、ますます興味深く拝見させていただきたいと思います。今日はありがとうございました。
(編集:中島洋一 構成:友清哲 撮影:吉田和生 デザイン:國弘朋佳)