[東京 18日 ロイター] -中小型液晶の世界最大手・ジャパンディスプレイ(JDI)<6740.T>が19日、東証に新規上場する。ソニー<6758.T>、東芝<6502.T>、日立製作所<6501.T>の子会社の若手技術者の「決起」が発端となり、産業革新機構から2000億円の出資を引き出し、スマートフォン市場拡大の追い風を生かせるタイミングで事業の拡大に成功。撤退や縮小など「敗戦」が相次ぐ電機業界の数少ない光明となっている。

親会社による事業切り捨てではなく、「ボトムアップ」方式での事業統合は今後のモデルケースになりそうだが、リスクを積極的に取りに行く民間マネーが、日本経済には不在であるという深刻な構造問題も露呈している。

<革新機構との出会い>

「助けてください。誰もお金を出してくれない。このままでは不戦敗だ」――。2009年11月、中小型液晶子会社の若手技術者らが、産業革新機構の谷山浩一郎マネージングディレクターのもとに駆け込んだ。これが、3つの液晶子会社の統合の始まりだった。

液晶技術者の訴えはこうだった。米アップル<AAPL.O>のiPhone(アイフォーン)が2007年に登場し、スマホ用液晶の市場が広がるのは間違いない。コモディティ化が進んだテレビ用の大型液晶と違って、高精細化が必要な中小型液晶では日本の技術優位性が生かせる。

今こそ投資のタイミングだが、当時、リーマンショックで疲弊した電機メーカーにとって中小型液晶は「ノンコア事業」。親会社からの設備投資資金は到底期待できなかった。

液晶技術者とともに革新機構を訪れたのは、M&A助言会社の産業創成アドバイザリー代表の佐藤文昭氏だ。佐藤氏は、電機アナリスト時代に築いた個人的な人脈で、液晶業界の企画担当者や技術者らと日夜議論を交わしていた。

韓国勢は、サムスン電子<005930.KS>、LGディスプレー<034220.KS>の2強が君臨、台湾でも奇美電子(現・群創光電=イノラックス<3481.TW>)、友達光電(AUO)<2409.TW>の2勢力に集約されていた。

一方、国内ではシャープ<6753.T>、東芝、日立、ソニーの4社に力が分散。「日本でも2大勢力に結集すれば均衡する。そこへ大胆に設備資金を投下すれば勝てる」──。これが佐藤氏らの最初の構想だった。

だが、肝心の事業統合に不可欠な資金がネックとなった。佐藤氏は志をともにした液晶技術者を伴い、3社統合のアイデアを持って民間ファンドを訪ねてみたが「液晶などに資金を出す民間ファンドはどこもなかった」(佐藤氏)。何件も門前払いされながら、やっとの思いでたどり着いたのが、2009年7月に設立されたばかりの革新機構だった。

<週末に手弁当>

谷山氏にも当初、資金を提供するかどうか、検討対象にするには、かなりリスクのある案件に映った。

東芝、日立、ソニーの液晶子会社はリーマンショックの直撃を受け、赤字を垂れ流していた。それだけでなく、この3社統合案は、現場の若手からの構想だ。競合し合う親会社の経営者をどう説得して、子会社をどのように結び付ければいいのか。まして、この事業にはまだ社長がいない。どの条件をとっても、これまでの投資の常識から離れていた。

それでも「日本の国富を守るために強い産業を作る」という革新機構の役割に合致する。何より技術者らの訴えを意気に感じた谷山氏は、中小型液晶の業界関係者にヒアリングを始めると、いずれも「技術があってチャンスが来ているが資金がない」と異口同音の回答を得た。

そこで、2010年1月から、液晶子会社3社の幹部らに呼びかけて、革新機構のオフィスで週末だけの非公式の勉強会を始めてみることにした。この時点で「子会社が集まっていることを知らない親会社もあった」(関係者)という。

文字通り「手弁当」の勉強会だったが、子会社同士で危機感を共有した議論は精度を増し、3―4カ月の議論を経て「早期に工場の増産投資をして、スマホ市場で圧倒的な地位を築く」という現在のジャパンディスプレイの戦略の原型が詰まった30ページ級の「3社統合の戦略骨子」がまとまった。

親会社3社が子会社らの勉強会を認めたのは、2010年5月。その直後に革新機構内に正式のプロジェクトチームが設置された。メンバーは、当時の東芝モバイルディスプレイ専務だった田窪米治氏、日立ディスプレイズ常務だった佐藤幸宏氏など、現在のジャパンディスプレイの執行役員陣に顔をそろえる実力者が参加した。

<親会社の思惑交錯>

しかし、この時点では子会社レベルの企画案に過ぎなかった。革新機構が3社の親会社に子会社統合計画を正式に提案したのは10年7月。ここから想像を超える難題が次々と到来し、「ギブアップ」寸前まで追い詰められる場面にも直面する1年間が始まった。

最初に反発したのがソニーだ。スマホと液晶の「垂直統合」の選択肢も念頭にあった同社は、革新機構が提示する価格の安さに態度を硬化させ、2010年秋に提案を拒否すると書面で回答した。

残されたのが東芝と日立だが、この年、東芝モバイルディスプレイは、米アップルのiPhone用液晶の受注や、アップルの投資で新工場の建設計画が持ち上がるなど事業が好転し始め、2社の距離も次第に離れていく。

もともと「東芝と日立では企業風土が水と油」(業界関係者)。ここで、ソニーという接着剤がなくなって3社統合の枠組みが壊れるか、それとも2社統合でやり抜くか――。究極の選択に結論を出したのが、液晶子会社の現場スタッフだ。革新機構と2子会社の担当者が集まって、2011年1月に出した結論は「2社統合で世界一を目指す」だった。

だが「この枠組みは3社でなければ意味がない」(産業創成アドバイザリーの佐藤氏)のも確かだった。1社でも離脱して韓国・台湾と組んでしまえば技術流出の歴史を繰り返す。そこで、2社の統合検討チームは一計を案じ、ソニー子会社に宛てて次のようなメッセージを送った。

――もう新幹線は2社を乗せて東京駅を発車した。まもなく品川駅で途中停車する。ここでソニーは乗車しなければ2度と乗れない――。

品川駅はソニー本社の最寄駅。新幹線になぞらえたソニーへの猛プッシュに敏感に反応したのが、当時のソニーモバイルディスプレイ副社長で、現在のジャパンディスプレイ取締役兼執行役員の有賀修二氏だ。液晶事業の厳しさを肌で知っていた有賀氏は「やはり3社統合が正しい道」と強く確信。親会社のソニー本社を説得し、2月以降に3社統合の議論の場に戻ることにした。

しかし、さらなる波乱が2011年3月の東日本大震災を挟んで訪れる。以前から日立ディスプレイズ買収の打診をしていた鴻海精密工業<2317.TW>が、日立本社に破格の条件を提示した。

すでに日立本社では鴻海との交渉を優先し、「日台連合」に傾いていた。ここで踏みとどまったのは、日立ディスプレイズの現場の力だ。

一貫して3社統合の必然性を訴えていた佐藤幸宏氏は「やはり技術で勝負したい」と日立の中西宏明社長に直訴。鴻海のテリー・ゴウ董事長にも嘆願書を送るなど抵抗を続け、6月末での交渉打ち切りにこぎつけた。「現場がそこまで言うのなら。お前らが幸せになるのが一番だ」と、中西社長は述べたという。

<エルピーダの教訓>

親会社を巻き込んだ波乱の交渉を経て、3社統合の基本合意が正式に成立したのが11年8月31日。革新機構の能見公一社長は記者会見で「グローバルリーディングカンパニーが誕生する」と語ったが、翌年4月の会社発足までに残された時間内で、解決する課題は山積していた。

過去の事業統合での失敗は、人事制度に集約される。破たんしたエルピーダメモリに日立から出向した経験のある半導体コンサルタントの湯之上隆氏は「エルピーダは当初、NECと日立からあらゆる部署に、課長、部長、統括部長がダブルに配置されて泥試合が起こった。海外競合メーカーと戦う前に内部の敵と戦うことで疲弊した」と証言する。

同じポジションに複数の人員の重複が起これば、社内抗争の芽ができる。統合準備では「新会社の組織を深くしない」(谷山氏)ことが最大の課題だった。

また、3社の人員の単純な合算では、固定費が高過ぎることになる。そこで1人当たりの売上高は1億円、台湾メーカー並みの販管費比率、営業利益率は10%を目指す指針が固まった。エルピーダでCOO(最高執行責任者)を務め、新会社の社長に内定していた大塚周一氏は、この頃から統合準備に合流した。

指針に沿って低コスト体質にするなら、管理系の人員を徹底的に減らさなければならない。革新機構はひとりひとりの処遇について親会社との交渉を重ね、時に親会社に人員を押し戻した。

ギリギリの調整を経て、統合前の3社を単純合算した国内人員7600人から、会社発足までに1400人を圧縮した。

さらに谷山氏が9月の統合準備の初会合で示したのが「統合憲法」だった。「主語はジャパンディスプレイ。東芝、日立、ソニーの名前でモノを語ってはならない」と規定し、統合準備に参加した3社の社員の旧社意識を摘んだ。

ジャパンディスプレイの株主構成は、革新機構が70%(その後86.7%)で圧倒的多数を握ったのはこのためだ。主要人事や組織の構築では、東芝、日立、ソニーらには口を出させずに、終始、革新機構と大塚氏が主導した。3社統合前には、新工場の立地でも、東芝と日立で争いになりかけたが、最後は革新機構の主導で日立の土地だった茂原に決めたという。

大塚氏は、統合準備の会合で「ロケットスタートを切ろう」と繰り返し、「親会社とのしがらみを断て」と檄を飛ばした。ジャパンディスプレイ幹部は「この時期に第3者の大塚さんが来たのは大きかった。エルピーダでよほど苦労したのかな」と振り返る。

関係者によると、社長候補の選定で大塚氏を推薦したのは当時のエルピーダ社長の坂本幸雄氏だった。2011年6月のエルピーダの定年退職に合わせ、地元で暮らそうと福岡県に住宅まで建てていた大塚氏は「私には失うものは何もない」が口癖。社用車もなく地下鉄で通勤し、出張も秘書を付けずに1人で飛び回る日々を続けている。

<戦略・戦術・ヒト、そして資金>

産業創成アドバイザリーの佐藤氏は、ジャパンディスプレイの業績好調の背景について「為替の円安に助けられた幸運もあったが、スマホ市場の拡大に設備投資がなんとか間に合った」と指摘する。

そのうえで具体的な勝因として、1)技術力でスマホの高精細化の需要を取り込むという戦略、2)新工場にタイミングよく増強投資するという戦術、3)それを実行するフラットな組織、4)大塚社長という第3者の経営者の存在――。これらが会社発足前に完成していたことが大きいと分析する。

佐藤氏は「結局、大事なのはヒトだった」と結ぶ。もともと「親」から切り離されかかっていた「子ども達」が危機感を持って独自の意志を貫き、理解を示した革新機構の谷山氏が情熱をもって働いた。これが「ジャパンディスプレイ成功の最大の要因だ」と話す。

一方で、新規事業の立ち上げで不可欠な存在である資金の取り込みで、日本経済には大きな障害が存在していることも鮮明になった。

ジャパンディスプレイの設立までの過程を振り返ると、民間ファンドにはすべて断られ、革新機構だけが資金提供に応じたという経緯が浮かび上がる。革新機構の創設に携わった経済産業省の西山圭太審議官は「これで民間マネーが動いていないことがはっきりした。しかし、本来なら官が介入するべきではない。1つの事例ができたのでドミノ効果を期待したい」と述べる。

革新機構の谷山氏は「今になってもジャパンディスプレイに巨額投資をする民間ファンドは、日本にないだろう」との見方を示す。谷山氏自身が民間ファンドのカーライル・ジャパンでディレクターまで務めたが「バイアウトファンドは銀行ローンでレバレッジをかけるため、銀行が貸さないものには投資できない。銀行はアップダウンのあるビジネスには貸せないし、事業統合など非連続な成長を事業計画には織り込まないからだ」と指摘する。

必要なのはレバレッジではなく純粋な株式取得による出資(ストレートエクイティ)だが、少額のベンチャー投資が盛んでも、電機メーカーの再編にかかるような巨額投資でリスクを取る投資家が現れない。

確かに「テクノロジーの将来を読むのは難しく、キャッシュフローのみえにくい業界」(佐藤氏)だ。

だが、電機業界の再編は、激しい国際競争に勝ち抜くための非連続な挑戦と言える。技術の優位性を理解し、複雑な業界の奥深くまで入り込んで再編に奔走するような、巨額資金でリスクをとる民間マネーの登場が、「IT王国ニッポン」を復活させる必須の条件になっている。

(村井令二 Edmund Klamann 取材協力:浦中大我 藤田淳子 編集:田巻一彦)