シェアリングエコノミーに内在する「分かち合う喜び」とは

2018/8/30

新しい経済の仕組み──シェアリングエコノミー

ライドシェアの規制が世界的に強まっている。ニューヨークで総量規制が始まったり、マレーシアではタクシー会社と同等の規制を適用することが決まったようだ。背景には、既存のタクシー業者やそれによって生計を立てている労働者の保護がある。
ライドシェアに限らず、シェアリングエコノミーは今急成長を遂げている。というのも、文明評論家のジェレミー・リフキンが『限界費用ゼロ社会』の中で書いているように、これは資本主義と社会主義を超える新しい経済の仕組みだからだ。
いや、自分の持っている資源を交換し、共有するというのは、ある意味で資本主義よりも古い経済の仕組みだともいえる。小さな集落で、人々はそうやって物を交換したり、共有したりして生きてきたのだから。
しかし、そうしたやり方は、社会の規模が大きくなると効率が悪くなる。誰が何を持っているのか探すだけでも大変になるからだ。それがインターネットのおかげで、再び可能になったのだ。
もちろん、まったく同じ仕組みだとはいえない。21世紀の共有、シェアリングエコノミーは、テクノロジーを駆使したより精度の高いものだ。でも、基本的発想は大昔のそれと変わらない。最大の違いは、おそらくすでに資本主義や社会主義が存在していることだろう。
だから既得権益を有した団体と争うことになる。共有したいのにそれを許さない環境があるのだ。ここが最大の問題であるように思われる。なぜなら、共有には単なる損得では計り知れない価値が内在するからだ。

ポイントは「分かち合う喜び」

シェアリングエコノミーが広がっているのは、誰もがそうした価値を感じたいと思っているからだといえる。それは「分かち合う喜び」である。
資本主義では、原理的にこの喜びを生み出すことができない。なぜなら、資本主義の場合、損得が優先するからだ。損得と分かち合いの喜びは、本来相いれないものである。
たとえば、資本主義のもとでモノを売るとき、私たちが考えるのは得するかどうかだろう。得をしないのなら売らないことになる。
ところが、シェアリングエコノミーのもとでは、得をしないとしても、分かち合う喜びが得られれば、取引が成立する可能性があるのだ。この差は大きいといえる。
この分かち合いの喜びについては、古代ギリシアのアリストテレスまでさかのぼることができるだろう。
古代ギリシアの都市国家ポリスでは、人々はまさに共同生活を送っていた。だから仲間や友達を重視したのだ。友愛を意味する「フィリア」が徳として称揚されたのもそうした理由からだ。他者を自分のように思うこと──それがフィリアである。
とりもなおさずそれは、分かち合いの喜びであるといっていいだろう。残念ながらそうした価値観は、アレクサンダー大王の遠征によるポリスの崩壊と共についえてしまった。
しかしそれは、分かち合いの喜び自体が否定されたことを意味しない。その価値は普遍的なものであって、だからこそアリストテレスの哲学も普遍的なものとして今なお参照されているのである。
(写真:thelefty/iStock)
したがって、シェアリングエコノミーにおける分かち合う喜びもまた、2000年以上の歴史をほこる普遍的な価値を持つものとしてもっと高く評価されるべきだと考える。
単純に資本主義の論理で片付けてしまってはいけない。経済がどうなるかとは別の次元で、そもそもシェアリングエコノミーという共有の仕組みが生み出す価値に着目する必要があるのだ。
少し別の視点から見ると、それは生き方、ひいては自己というものに対する価値の更新でもある。

自己の一部が他者との共有物へ

洋服から車や家まで、今やシェアするのが特別ではなく、普通のことになりつつある時代だ。そうした社会の変化は、所有をベースにした生き方から共有をベースにした生き方への更新を伴う。
あるいは、洋服に象徴されるように、「第二の皮膚」といわれるほど重要だった自己の一部までが、いまや他者との共有物になっている。
ある意味でこれは、自己というもののとらえ方さえ変わりつつあることの兆しではなかろうか。つまり、自分は自分だけのものという発想から、自分もまた他者との共有の中で成り立つ存在だという発想への変化が起こりつつあるように思うのだ。
しかも大事なことは、そうした価値の変化を、私たちが楽しんでいるという事実だ。だからこそ、シェアリングエコノミーに対する規制は安易になされてはいけない。
せっかくテクノロジーが再発見したこの人類の喜びを、たかだか数百年前に産業革命で生まれたような仕組みの犠牲にしてしまうのはあまりにももったいない。
*本連載は毎週木曜日に掲載予定です。
(執筆:小川仁志 編集:奈良岡崇子 バナー写真:PJjaruwan/iStock)