なぜ人間はアンドロイドに感情を求めたくなるのか
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注目のコメント
人は「モノ」を擬人化するのが好き。
ましてやそれが「人」に近い場合はなおさら。
曰く、
ルンバに名前をつけている人
家でぬいぐるみと話す人
名前のついた生産ロボット
ましてや相手が自律的に考え、動けば決定的でしょう。
将来アンドロイドどころかロボットと結婚したい人が出てもおかしくない。うーむ。この記事の中に「公共哲学」的な考察を殆ど見出せない。
人間ではないからといって"公的に"虐げていいわけではない。
例えば動物愛護法では、牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと、あひるの11種については、人が占有していようがいまいが、故意に殺傷した場合は罪に問われる(占有されている哺乳類、鳥類、爬虫類も対象となるが、両生類以下の動物(例えば魚類なども)は占有されていても器物破損罪が適用されるモノ扱いとなる)。
一方で、人間は動物愛護法の対象となる動物を大量に屠殺して食べている。
アンドロイドも似たようなもの。
人間は勝手に感情を見出し愛着を持つ一方で、過酷な労働もさせ、残虐な扱いもするでしょう。おそらく占有されている場合や公の場での"虐待"行為は、動物愛護法的な規制対象になるかも知れませんが。
「人権」のようなものが認められるためには、その対象の感じる苦痛が社会を構成する多くの人に共感されなければなりませんが、そうなる条件は限られています。(例えば、量産型Pepperと鉄腕アトムの違い)
脳の仕組みも民主主義も情報社会も合成の誤謬も何にもわかっていないカントを持ち出して理性が云々などという必要は全くない(カントは「道徳の形而上学の基礎づけ」のなかで、一人一人が道徳法則を目指すだけで理想の国ができると言っているが、これは近代哲学が描いた大きな幻の一つだと思う)これは…昔からある議題ですが、AI社会が迫っている今、より現実的な議題になりつつありますね。
個人的な意見ですが、人間は常に感情を共有する相手を求めているので、人間以外にその存在を求めることは何も不思議では
ないと思います。
ですので、そのことと「アンドロイドに人権を」のくだりとは別々に考えるべきかと思います。
では「アンドロイドに人権を」という現象について、どう考えればいいかと言うと、これについては基本的には岩田さんの意見に共感を覚えます。
それは、映画を例にするとわかりやすいかもしれません。
つまり「ブレードランナー」や「月に囚われた男」など、こういった議題が映画においてよく取り上げられるのは何故か?という疑問に対する答えと重なっていると思うからです。
まず、この手の映画では基本的に「感情を持ってしまったアンドロイド側目線」で話は進み、最後に人間とアンドロイドの違いを浮き彫りにすることによって観客にジレンマを覚えさせ、問題提起することで終わるパターンが非常に多いんですよね。
ここで観客は思うわけです。
「やはり人間はアンドロイドとはわかり合えないものなのか?いや、そんなことないだろう!」と。(もちろん他の意見もあります)
つまり、このような感情を感じれることこそが、SF映画の醍醐味であり、ヒットの法則なのではないかと私は思うのです。
だからこそ、こういう題材がSF映画の中で散りばめられるわけなんだと思います。(かの有名なモンスター映画、「エイリアン」の中ですら、散りばめられています)
それはつまり岩田さんの言うように、ナルシスティックな倒錯でもあるのではないでしょうか。
注)私はSF映画大好きです。