なぜ人間はアンドロイドに感情を求めたくなるのか

2018/6/28

SFのモチーフの常連、アンドロイド

今日はロボットの話をしたいと思う。中でもアンドロイド、つまり人型ロボットについてだ。
ロボットに関するテクノロジーも日々進化しており、日常生活やビジネスのあらゆるシーンでロボットが見られるようになってきた。
案内係どころか、手術までロボットがやる時代だ。
そしてアンドロイドに関しては、その外見もますます精緻になり、皮膚の感覚から表情まで、まさに人間そっくりのものが生み出されつつある。
人間はかなり昔から、アンドロイドに夢を馳せてきた。だからSFのモチーフには必ずアンドロイドが出てきて、人間との関係性が描かれてきたのだ。ときに人間の仲間として、ときに敵として。
そんなアンドロイドが現実になってきた今、私たちは彼らとの付き合い方を真剣に考えなければならない。
(写真:YakobchukOlena/iStock)
かつてアメリカのSF作家アイザック・アシモフは、「アシモフの三原則」と呼ばれるルールを提起した。ひと言でいうと、結局ロボットは人間に危害を加えてはいけないということだ。

アンドロイド相手に心が痛むのは

では、その反対はどうか? 人間はアンドロイドに危害を加えてもいいのだろうか? もしアンドロイドがモノに過ぎないのであれば、自分の所有物をどう扱おうが自由のはずだ。
アンドロイドは人間ではない。どこまで精巧にできていても、それはあくまでモノなのだ。
ところが、なぜか私たちはアンドロイドに危害を加える人間の姿を不快に思う。実際、ロボットの研究開発を行うボストン・ダイナミクス社のPRビデオで、人型のロボットが棒で倒される映像を見て、多くの人が不快感を覚えたようだ。
そういえば、「チャッピー」という映画の中で、アンドロイドが人間に暴力を振るわれているシーンを見て、私も激しい怒りを感じたのを覚えている。
仮に彼らが痛みも感じず、やられていることの意味さえ理解していないとしても、私たちは一方的にこうした行為に不快感を覚えるのだろう。
おそらくそこでは、人間の尊厳を傷つける行為を重ね合わせているのではないだろうか。無意識のうちに、「もしあれが人間だったとしたら」という想像をしているのだ。そう考えるとわかりやすい。
では、そもそもなぜ人間の尊厳は傷つけてはいけないのか? 
私たちはそれを当然のものと思っているが、日ごろ理由を突き詰めて考えることはない。あまりにも当たり前すぎて。

哲学者カントの着目した「人間の素晴らしさ」

この点、ドイツの哲学者カントは、人間が理性を持った存在であることに着目している。モノや他の動物と異なり、人間だけが理性的に物事を考え、行動することができる。そこに人間の素晴らしさを見いだしているのだ。
たしかにその通りだ。物が破壊され、動物がたたかれるのは、理性がなく自分で自分を律することができないから。
しかしそうなると、アンドロイドが人間とまったく同じ理性を備えるようになったとき、もはやそれは単なるモノではなくなる可能性があるわけだが。
ただ、今のところアンドロイドは人間とまったく同じ理性を持っているとはいえないので、そこに尊厳を見いだす必要はなく、危害を加えてもいいことになってしまう。
この結論が支持されないだろうことは、先ほどのボストン・ダイナミクス社の事例からも予測できる。きっとここには、人型の物体に理性を擬制する人間の不思議な部分が影響しているに違いない。

アンドロイドにも人権を──人間の不合理さ

それは何なのか? 一種の感性ではないだろうか。
子どもたちが、ぬいぐるみやおもちゃを擬人化するのは、洋の東西を問わない。つまり、宗教や特定の思想を超えた、人間に普遍的な要素だといえる。
その人間に普遍的にそなわった感性が、アンドロイドの理性を擬制し、理屈を超えて倫理を生み出そうとする。
もしかしたら、これこそ人間の本質であり、人間の尊厳や人間らしさを規定する要素なのかもしれない。
この感性が、アンドロイドを奴隷として扱ってはいけないとか、アンドロイドにも権利をといった主張を生み出すのだ。
これは人間の不合理さであると同時に、やさしさの部分だ。
もちろん逆に、あえて人間性を擬制したアンドロイドに対して危害を加える醜い行為も可能になる。
今後も社会にどんどん増えていくアンドロイド。彼らをどう扱うか、私たちの人間らしさが試されている。
*本連載は毎週木曜日に掲載予定です。
(執筆:小川仁志 編集:奈良岡崇子 バナー写真:Natali_Mis/iStock)