【新・浅野拓磨】過信から直面。右肩下がりの成長曲線

2018/5/9
50メートルを5秒台で走る快速を武器にリオデジャネイロ五輪でプレー、日本代表にも選出されたFW浅野拓磨選手。2016年シュトゥットガルト移籍後、今季は出場機会に恵まれていないが、どうやって壁を乗り越えようとしているのか。『考えるから速く走れる ジャガーのようなスピードで』を刊行する浅野選手が語る。

ドイツ2年目、出場機会激減

ヴァヒド・ハリルホジッチ前監督が率いたサッカー日本代表において、浅野拓磨は重要な“飛び道具”のひとつだった。
2015年、サンフレッチェ広島で急成長を遂げた俊英は、国内屈指のストライカーである佐藤寿人(現・名古屋グランパス)とレギュラーを争いながら32試合に出場し、8得点を記録。50メートルを5秒台で走る爆発的なスピードを武器に存在感を示し、チームのリーグ制覇に貢献した。
翌2016年にはU-23日本代表のエース格としてリオデジャネイロ五輪に出場し、東アジアカップでA代表デビュー。以降、ハリルホジッチ監督に重用され、W杯アジア予選は6試合に出場して2得点を記録。2017年8月のオーストラリア戦では、5大会連続となる本大会出場権を引き寄せる貴重な先制点を奪った。
急激な右肩上がりの成長曲線を描く中で、そのスピードは海外からも注目された。2016年夏、浅野はイングランドの強豪アーセナルへ移籍。そのまま2年間の期限付移籍でドイツのシュトゥットガルトへ渡り、ブンデスリーガ2部を戦うチームで24試合に出場。得点こそ「4」にとどまったものの、1部昇格の歓喜を味わった。
ところが――。
迎えた2017-18シーズン、舞台を1部に移したチームで、浅野の出場機会は激減した。日の丸のスタメンを勝ち取り、オーストラリア戦で値千金の先制ゴールを奪った直後のことだった。
以来、2017年は11月に入るとスタメンから外され、12月19日のカップ戦を最後に公式戦での出場が途絶えた。2018年は5月を迎えているというのに、公式戦のピッチには一度も立てていない。
シュトゥットガルトで何があったのか。自らの言葉で、浅野がドイツに渡ってからの2年間を振り返る。
浅野拓磨(あさの・たくま)
 1994年三重県生まれ。四日市中央工業高校2年時に高校選手権で得点王に。卒業後、サンフレッチェ広島に入団。2015年日本代表に初選出。2016年アーセナルに移籍したが、労働ビザの取得が難しくシュトゥットガルトにレンタル移籍(撮影:Itaru Chiba)

自信が過信へ。甘さを実感

シュトゥットガルトに来たのは2016年夏。アーセナルへの移籍が決まり、そのまま2年間の期限付移籍をすることになりました。
サッカーに詳しい人ならよく知っているかもしれませんが、イギリスの労働ビザを取得するためのハードルはなかなか厳しく、サッカー選手の場合は日本代表での実績やその他の国での実績が評価されなければ、労働ビザが発行されません。
だから、僕がアーセナルでプレーするためには、まずはドイツのブンデスリーガと日本代表で結果を残す必要があります。そのことは最初からわかっていたので、ドイツでプレーすることに対するイメージは、ある程度持ってこちらに来ました。
もちろん、日本でプレーするよりもずっと状況が難しくなることは覚悟していました。その難しさはほとんど想像どおりで、あらためて驚くことはほとんどありません。2015年からの僕はある意味“イケイケ”で、不安よりも自信のほうが圧倒的に上回っていた。だから、多少の変化やそれに伴う難しさなんて気にならなかったんだと思います。
ただ、今になって振り返ると、その自信が、もしかしたら過信に変わっていたところもあったのかもしれません。
なんとなく違和感を覚えるようになったのは、やはり試合に出られなくなってからだと思います。2016-2017シーズンのラスト数試合、そのあたりから僕は満足な出場機会を確保することができませんでした。
感情的には、悔しさと同時に「なんで出られないんだ」「おれを出してくれよ」という感情も湧きました。「出してくれたらできるのに」という自信はずっと持っていたし、もちろん今でも失っていません。
でも、振り返って考えてみると、試合に出られなくなり始めたころのメンタリティーは、例えばサンフレッチェ広島にいたころとは少し違うものでした。そこに、わずかな過信があったのかもしれません。
高校を卒業してサンフレッチェ広島に入ったばかりのころは、自信はあったけど、試合に出られないことが当たり前でした。そこからどんどん上をめざして、練習で少しずつ結果を残し、試合に出られるようになった。試合で結果を残せるようになるまでには時間がかかったけれど、とにかく、あのころはほとんど右肩上がりの成長曲線を実感していて、毎日の練習が楽しくて仕方ない状態でした。
ところが、シュトゥットガルトで過ごした2シーズンは、広島時代とはまったく逆。Jリーグで活躍して“イケイケ”の状態でこちらに来て、すぐに試合で使ってもらうことができて……。正直なところ「試合に出て当たり前」と思っていた時期があり、そこに甘さがあったと思います。
1年目から試合に出ていても、下から追い上げてくる選手のことを意識して競争しなければいけなかったと思います。意識しすぎてもダメだけど、当時の僕はその部分が足りなかった。
とはいえ、そんな自分に失望しているわけではありません。結果的には右肩下がりの成長曲線を描いてしまったけれど、それによって、また右肩上がりに修正することの面白さや楽しさ、試合に出ることのありがたみや幸せを感じるようになりました。
右肩上がりを取り戻すチャレンジは簡単じゃないけれど、自信だけはある。僕にとっては踏ん張りどころ。厳しくて難しい状況を、なんとしても自分の力で打破しなければなりません。
(構成:細江克弥、写真:アフロ)