甲子園で最も残酷な事件。野球界の大罪と、唯一の救い

2017/12/13
いまになって考えてみれば、“あの事件”は、未来への警鐘だったのかもしれない。
2013年夏の甲子園、2回戦の木更津総合対西脇工業で見た光景は、高校野球史の中で最も残酷な事件として記憶に残っている。
悲劇の主人公となったのは、木更津総合の先発マウンドに立った2年生エース・千葉貴央だ。
千葉は1回裏の第1打者の初球、これが全国大会の舞台で投じる球なのかというような、球速90キロほどの山なりのボールを投げた。2球目も、3球目も、4球目も……そして、空振り三振に斬ってとったカウント3ボール、2ストライクからも同じような投球に終始した。
彼の右肩は悲鳴を上げていたのだ。
疲労感にふたをして力投する高校球児の姿はゴマンと見てきたが、こんな光景を目にしたことはない。
20歳に満たない若者の身体が限界点に達し、マウンド上でそれを主張するかのようなボールを投じていたのだ。
千葉はこの後、マウンドを降りた。
かつてない残酷な降板劇だった。甲子園を舞台に一人の高校球児が肩を落として、引き揚げていく姿に身の毛がよだつ感覚に襲われたものだ。
あれから4年が経過した。
当の被害者となった千葉はいまも野球を続けている。
2012年に神宮大会を初制覇するなど、神奈川大学野球連盟に君臨する桐蔭横浜大学の3年生として新チームのスタートを切った。このほど、新主将に就任した。
大学に入ってから公式戦での登板がなく、いまもケガの渦中にある。千葉はあの日のことをどう受け止め、野球と向き合っているのだろうか。
来シーズンへ向けて動き始めた桐蔭横浜大の千葉投手のもとを訪れた。
小学生からひじが痛かった
投内連系やピッチング練習など、一通りの練習メニューをこなすと、快活に「いまから(時間)大丈夫です」と言って千葉は取材場所に来てくれた。好青年の印象だった。
「みんなが憧れている甲子園で、このマウンドに立ちたい人がいっぱいいるのに、ケガでふがいないピッチングしかできなかったのは野球に申し訳なかったですね。このままの状態でマウンドに立つのは甲子園に申し訳ない。そんな気持ちでした」
あの投球について千葉はそう振り返る。その言葉から被害者意識はまったく感じられなかった。「申し訳ない」と繰り返した千葉は、こう付け加えた。
「複雑な気持ちでした。ケガで投げられなかったことも悔しかったんですけど、高校の監督さんが周りから批判を受けていることが一番つらかったです。僕は本当に五島(卓道)監督を信頼していました。監督さんが僕を無理やり登板させたわけではなく、自分からわがままを言って投げていたのに批判を受けているのは苦しかった」
千葉が野球を始めたのは小学1年生のころだ。男3人兄弟の末っ子で、2人の兄にならうかのように野球チームに入った。ポジションは主に投手。登板しない時は捕手を守った。
中学では学校の軟式野球部に所属した。全国大会には出られなかったものの、県選抜チームに選ばれるなど評判の投手だった。高校は地元の習志野高との二者択一の中、独特な緊張感で繰り広げられる練習の雰囲気に引かれて木更津総合を選んだ。
入学して数カ月後の夏の甲子園大会でベンチ入り。初戦の2回戦・大阪桐蔭戦、2対7の場面の8回から登板。1失点したものの、2イニングで3三振を奪う上々のデビューを飾った。
しかし、このとき、すでに千葉の身体には異変が始まっていた。
いや、元をたどればもっと昔からだったと、千葉は回想する。
「本当のことを言うと、小学生のころからひじが痛かったんです。でも、痛くてもごまかしながらできていた。中学から変化球を投げるようになって、スライダーだとひじが痛まないので、かわすピッチングで抑えていました。その後も痛みを我慢して投げていたんですけど、高校1年生の秋くらいから肩が痛くなって、それからはごまかしながらやるのが難しくなった」
小学校低学年の時からとにかくボールを投げたという。
試合では午前中に上の学年の試合に登板し、午後になると同学年のチームに戻ってまたマウンドに登る。「練習などのキャッチボールを含めれば、1日300球くらい投げていた」と千葉は振り返る。
高校1年夏の甲子園が終わってからは故障の連続だった。ひじではなく右肩に痛みが走り、リハビリに励む。痛みが和らいでは投げ、また痛む、その繰り返しで2年生夏の千葉大会を迎えたときは、ほとんどぶっつけ本番だった。
そして、同大会では準決勝と決勝に先発して完投勝利を挙げ、全国の舞台に導いた。2日間の連投で球数は300球を超えていた。
この時点で彼の右肩には痛みがあった。「顔を洗うのもつらい」ほど、肩を上げるのが難しかったという。
それでも投げた。そうした登板は高校で始まったことではなく、小学生時代から痛みがありながらも我慢して投げてきたから、千葉自身の中に特別な異常を感じさせなかったのかもしれない。
「あの日もそうですけど、試合でマウンドに上がったら、何とかかわすピッチングで抑えることができるという自信があったんです。指導者の方も、僕の肩の痛みに気づいていたと思います。それは小・中学校の指導者も同じでしょうね。でも、マウンドに行けば僕が普通に投げて抑えているので、それほど重症のようには見えなかったんだと思います」
甲子園が魅力的すぎるんです
甲子園1回戦の上田西戦で先発した千葉は135キロのストレートを見せ球に、スライダーを多投して5失点完投勝利。138球を投じる力投だった。
5日後、事件が起きた2回戦の西脇工戦も同じ気持ちで試合に臨んだが、試合前から右肩の痛みはそれまでよりひどく、投球練習ではホームまで届かないほどだった。
それでも、甲子園という舞台。このマウンドから逃げるわけにはいかなかった。あそこに行けば、何とか投げられるだろうと勝負の場所に向かった。
「1回戦の時も痛み止めの注射を打っていたんですけど、効かなかった。僕は人よりもアドレナリンの分泌が少ないので、興奮剤のような薬も飲んでいたんですけど、それも効かない状態で。マウンドに行けば何とかなるかもと思ったけど、力も入れられない状態でした」
千葉の言葉を一言一句、聞いていくだけで、胸が締め付けられそうになる。なぜ、彼がそうなるまで誰かが手を差し伸べなかったのか。
山なりのボールしか投げられない状態でも登板させた、木更津総合の五島卓道監督に批判の目を向けるのは簡単だ。実際に当時、筆者もそうした思いに駆られた記事を書いている。
しかし千葉に限ったことではなく、痛みを我慢してマウンドに立ち続ける高校球児の姿がいまもなくならないのは、甲子園という舞台が醸し出す魔力にある。千葉はこう言ったものだ。
「甲子園が魅力的すぎるんです」
もともと千葉が木更津総合に進学したのは、プロ野球選手を目指してのことだ。ここなら自分を成長させてくれると、将来を見据えた。しかし、甲子園を本気で目指す高校野球の世界に足を踏み入れると、千葉の中に「将来」の二文字は消えていた。
「いま冷静に考えれば、ケガを我慢して投げるより、将来を大事にしたほうがいいと思います。でも、高校の時は“自分の将来はどうでもいい。将来、野球ができなくても、いま目の前の仲間たちと甲子園で戦いたい”と思いました。ケガをしたから自分だけが出場を放棄するという選択はなかったです。自分にとってそれだけ甲子園の存在は大きかった」
あの時の感情は一生変わるものではないという。今回の取材の中で衝撃的なことの一つとして、いまもケガに苦しむ千葉は、あの試合に戻ったとしても先発を志願すると断言している。
だが、そこへある質問を付け加えると、千葉は揺れる感情を整理して、本音を吐露した。
――もし、自分の兄弟や親戚にあの日の千葉君と同じ立場の人がいて、ケガを我慢して甲子園で投げると言ったら、何とアドバイスしますか。
「その立場なら止めると思います。自分がやっている分にはいいんですけど、人が痛みを我慢してプレーしているのを見ると心苦しくなる。自分と同じ苦しみを人に味わってほしくないです」
高校生の成熟し切っていない精神状態では、将来のことなど頭から消えていくのだろう。2009年夏、背中の痛みを抱えながら甲子園での登板を志願した花巻東の剛腕・菊池雄星(西武)も、「今日で野球人生が終わっていいと思って投げた」と言ったほどだ。“甲子園の魔力”がそう言わせるのかもしれない。
千葉をチームに招き入れた桐蔭横浜大の齊藤博久監督は、あの舞台を前にして、指導者の選択は難しいと語る。
「絶対的なエースがいれば決断は難しいですね。正直、僕も勝ちたいので、痛み止めを打って投げられるのなら投げさせたいと考えます。千葉のケースは痛み止めを打てば何とかなるだろうと、本人もスタッフも思っていたんじゃないですか。それが思っていた以上にひどかった。選手は頑張って投げようとしますから、彼らが放つ危険信号を大人が感じてやることが課題でしょうね。そして、医療といかに連携していくかが大事だと思います」
“勝利”と“将来”の優先順位は、その場面に遭遇した者にしかわからないものがあるのは確かだ。だが千葉が発した次の言葉から、野球界が直面している“病巣”が見えてくる。
「指導者からは『痛みはお前にしかわからないから、痛いときは言え』と言われるんですけど、『痛いか?』って聞かれることはないんです。いつも聞かれるのは『行けるか?』です。でも、そうなると『行けます』としか言えない。それが選手の心理だと思います」
もっとも、千葉はこれまで関わってきた指導者たちに恨みを持っているわけではない。あくまで、“高校野球界にある環境や価値観は、そういうものだ”と話してくれている。むしろ、いまの千葉のモチベーションとしては高校時代の恩師・五島への想いが大きい。
「監督さんが僕のことで批判を受けていたので、ここで僕が野球をあきらめてしまったら、『木更津総合の五島監督が千葉を潰した』と絶対に言われると思うんです。だから、どうしても復活しなければいけない。ケガをして“いろんな人に支えられている”と実感しているので、みんなに恩返しすることが、僕が野球を続ける動機です」
苦悩を味わわせた大人たち
あの事件の後、千葉はしばらくして、今度はひじを痛めた。3年夏は2試合登板のみで、高校野球を終えている。大学進学後は、その影響で公式戦の登板がなく年数を重ねた。
ただ大学3年の春になるまで、どの病院で診断を受けても肩やひじに損傷は見られなかったが、新たな進展があった。
右ひじを曲げると、そこにある尺骨神経が移動するという。レントゲンやCT検査では見つけることが困難な症例で、通常の人とは異なる点に痛みの原因があるとわかったのだ。そして今年の春、ようやくひじにメスを入れた。
秋の公式戦後に行われた練習試合で千葉は2試合に登板。3年の歳月を経て、ようやく復帰を果たした。登板の感想は、「楽しい」のだそうだ。
いま振り返って、千葉は甲子園をどのように見ているのか。“甲子園の魔力”によってケガを負わされたものとして、あの大会のあるべき姿について尋ねてみた。
「日程は変えたほうがいいと思います。千葉大会だと決勝まで7、8試合もあって、2度の連戦がありますから、選手にはきついと思いますね。それとケガをしている選手に出場の可否の判断を促しても、自分から『出ない』と決断をするのは難しい。だから、そうならないようなルールを作ったり、指導者の方の自覚だったりが必要なのかなと思います」
千葉にこれほどの苦悩を味わわせた責任は、大人たちにある。
彼の野球人生のどこかで誰かがストップをかけていれば、こうはならなかったはずだ。1日の中で連投を小学生時代に課し、中学時代にもダブルヘッダーで登板。同様のことが高校でも繰り返された。
甲子園では大会前に肩とひじの検診がある。レントゲンを持参し、問診のようなものが行われるらしいが、顔を洗うのも困難だった千葉の肩とひじを「問題なし」と診断した日本高校野球連盟の責任は決して小さくない。
野球界にとって唯一の救いは、千葉がまだ夢を追い続けてくれていることだ。
「甲子園で肩をケガしたあの日から、いままで一度もプロ野球選手の夢をあきらめたことはありません。上で野球を続けたいです。ケガのおかげでかわすピッチングを覚えたので、ストレートで押せるような速い球を投げられるようになれれば、駆け引きで抑えられる。150キロを投げる変化球投手になるのが目標です」
あの事件から4年、千葉はいまも野球への純真な想いを忘れずにプレーを続けている。
野球界にとって重要なことは、ここで千葉が発してくれた言葉の一つ一つをどう受け止めるかだ。
千葉の苦悩が未来につながるように――。
あの事件が明らかにした野球界の病巣を、このまま放置させてはならない。
(撮影:中島大輔)