浮かび上がるホログラムを手で操作

先日、ステファニー・ローゼンバーグが出社すると、オフィスのパソコンのモニターがなくなっていた。周りを見回すと、同僚たちはヘッドセットをつけて、手を伸ばして空気をつかもうとしていた。
「ああ、そうだった」──。その日、休暇から戻ってきたところだったローゼンバーグは、少し遅れてその状況を理解した。
ローゼンバーグはAR(拡張現実)ヘッドセットを開発するサンフランシスコのスタートアップ「メタ」(Meta)でマーケティングを担当している。
同社のヘッドセットをつけると、現実世界に重ねられたホログラムが浮かび上がってくる。ユーザーはそうしたバーチャルスクリーンを手で操作しながら、ウェブをブラウジングしたりメールを送ったり、コードを書いたりできる。
メタのCEOメロン・グリベッツ(31)は「現代のオフィスの暴政」を終わらせたかったと語る。そのために、パソコンのモニター、キーボード、さらにはデスク間のパーテーションまで取っ払い、ARでの代用を目指している。現在は自社の社員を使ってヘッドセットの機能テストを行っているところだ。
グリベッツはコロンビア大学で神経科学とコンピュータサイエンスを学んだ後、2002年にメタを設立した。
メタは昨年、レノボやテンセントなどから5000万ドルを調達。同社の949ドルのヘッドセットは現在、建築家やデザイナー、自動車メーカーなどに使われている。利用者数は年内に1万人を超えると同社はみている。
メタが目指すゴールは、AR技術を使って現実世界からのシームレスな拡張世界を作り出すこと。人々が現実の物体を操作するのと同じようにホログラムを操作できるようにすることだ。
ユーザーたちはマウスでクリックやドラッグをしたり、キーボードをたたく代わりにヘッドセットを通して見える3Dコンテンツを手で操作する。
グリベッツはARのハードウェアはすぐに商品化されると考えており、そのためソフトウェアの開発に集中している。アップルの直感的なユーザーエクスペリエンスからインスピレーションを得ているという。

「想像と創造の間」を埋める

グリベッツのビジョンでは、オフィスワーカーはホログラムの周りに集まって、ほぼどんな仕事でも共同でこなすことができるようになる。つまり、オフィスにはコンピュータもデスクもチェアも不要になる。
そんな未来の職場が垣間見えるのが、グリベッツ自身のオフィスだ。デスクの代わりにあるのは、木製の薄い板。彼の身長ほどの高さに設置され、ヘッドセットが置けるぐらいのスペースしかない。メタの社員たちのオフィスも同じように改装するつもりだ。
グリベッツは自身のビジョンについて、ユーザーが「想像と創造の間」を埋めるのを助ける「認知的に健全なコンピューティング」だと語る。ARは最終的には、現実世界のすべてのものについてメタ情報(これが社名の由来だ)を重ねることができるようになると、グリベッツは信じている。
食べ物を触れば、すぐに栄養素が見えたり、花を手にすれば、そのDNAが見えたり、カンファレンスで誰かと握手すれば、その人のリンクトインのページが浮き上がってきたり、といった具合だ。気持ち悪いと思う人もいるかもしれないが、ARは人々を現実世界に近づける技術だ、とグリベッツは考えている。
ARにかける企業はメタだけではない。マイクロソフトやアップルもAR技術の開発にかなりのリソースを投入している。アップルのティム・クックCEOは以前、叫びたくなるほどARに興奮していると語っていた。
グリベッツは、アップルなど資金が潤沢なライバルたちを前にしても、メタには勝ち目があると信じている。なぜなら、メタの社員たちが職場をARで変えるという一つの目標に向かって、社内で技術テストをしているからだという。
自社製品やサービスを社員が試験運用してみる「ドッグフーディング」は多くのテック企業で行われているが、大企業になるほど複数のプロジェクトが同時に進む傾向がある。
メタ社内でのテストは、神経科学者のチームによってモニタリングされている。チームは、ヘッドセットをつけた社員たちの目や体がどんなふうに感じているか、PCのディスプレイがあるときと比べて仕事の効率はどうかなどといったデータを集めている。
グリベッツいわく、目標はiPhoneよりも10倍使いやすいOSを作ることだ。だがその開発はまだ初期段階にあり、実用化までの道のりは長い。

社内テスト、エンジニアには不評

メタのヘッドセットの社内テストは、エンジニアのチームから始まった。だがメンバーが最多のグループの一つで、締め切りのプレッシャーに追われる部署でもあったため、テストは失敗に終わった。
エンジニアたちはモニターがないために時間内に仕事を終わらせることができないと不満を漏らした。エンジニアたちが日々使っていたソフトウェアのすべてがヘッドセットと互換性があったわけではなかった。
さらに、テストとコードの書き込みを同時に行うときにも問題が生じた。プログラマーのベン・ルーカスはARを試した当初の経験を「船酔いみたい」だったと表現した。
グリベッツは結局、エンジニアらを対象としたテストを断念。代わりにマーケティング、営業、管理部門のゆったりしたペースで働く、メンバーの少ないチームにヘッドセットを試させた。
ほどなくして、有益なフィードバックが次々と寄せられるようになった。複数の社員から動作が不安定なことがあるとの声が上がると、プログラマーたちがアルゴリズムを修正して問題を解決した。
社員たちは全社的なハッカーソンにも参加して、さまざまなアプリを開発した。3Dデータビジュアライゼーションや付箋アプリなどだ。メタはこうしたドッグフーディングの過程で開発したツールやコンセプトについて特許権をいくつか申請している。
必然的に、AR技術によって楽になった仕事もあれば、難しくなった仕事もある。
たとえば、次世代のヘッドセットをデザインしているエスター・ルク―の場合。彼女は以前、会議では2次元のデザイン画を見せていた。それが今や、皆がヘッドセットを装着して、3Dホログラムの実物大模型を360度から見ることができるようになった。
一方、デザインの初期段階でヘッドセットをつけたまま原画を描くのはルク―にとって困難だった。フォトショップならすぐに修正できるのに、ARの中のスケッチで細かな作業を繰り返すのは骨の折れる仕事だった。
これが必ずしもAR技術の限界を意味しているわけではないと、ルクーは言う。ただ、少なくとも今のところ、タスクによって便利になる場合もあれば、そうでないこともあるという話だ。
ARは将来的には私たちが日々の生活で使うさまざまなツールの一つになるだろうと、ルクーはみている。私たちが場合によっては、まだペンと紙を使ったり電話とモニターを活用しているのと同じように。
しかし、ルクーの上司であるグリベッツはもちろん、ARがすべてに取って代わると信じている。

夢のミニマリズムオフィス

AR技術の恩恵は製造業だとわかりやすいはずだ。自動車メーカーはプロトタイプの実物大の3Dホログラムが瞬時にできるおかげで、新モデルの開発を迅速化できる。一方、平均的なオフィスワーカーに関しては、ARの恩恵はもっと微妙でわかりにくいかもしれない。
メタの社員の経験に基づけば、生産性の最大の向上につながったのは、無限のバーチャル空間で無制限のスクリーンを持てるようになったことだ。あるタスクに集中しながら、メールやソーシャルメディアといった気を散らすものは脇に追いやることができる。
巨大なスプレッドシートを広げることで、膨大なデータの中から興味深い傾向を見つけやすくなったと指摘するメタの社員もいた。大きなホログラフィックのページで共同作業が行えるために、ブレインストーミングが容易になったとの声も聞かれる。
メタでは多くの社員がモニターをなくすことに難色を示したが、いったん撤去してしまえば、日々の仕事がより直感的で没頭できるものになったという。ARの世界に入り込み過ぎて、数時間後に現実世界に戻ったときに違和感を覚える人たちも。
「突然、すべてがとても小さく見えるんだ」と語るのは、ユーザーエクスペリエンス部門のシニアディレクターを務めるカリス・オコネルだ。「ヘッドセットを外した後に携帯電話を見ると、目を細めている自分がいる。『ワオ、いつもこんな小っちゃな長方形に囲まれていたなんて信じられない』って感じだ」
コピーライターのリス・オウウアーは、現実世界に戻ったときに物がつかめなくなるときがある。とくに会社のサラダバーのトングが厄介だ。「ホログラムと同じようにつかもうとしてしまう!」
メタの社員でさえこんな状況なら、一般の人にAR技術のメリットを伝えるのはなおさら難しい。未来的な開発をしている多くのテック企業が、その技術を世に広める伝道者「エバンジェリスト」を雇っている。
メタのエバンジェリスト、ライアン・パンプリンは自ら一日の大半をARの世界で過ごす。自宅や飛行機の中でもヘッドセットを着用し、ワイドスクリーンで映画を楽しむ。
グリベッツのオフィスと同様、パンプリンの働くスペースもミニマリズムの教科書のようだ。白いデスクの上にはヘッドセットとキーボード以外、何もない。壁には賞状やニュース記事の切り抜きが何枚かピンで留められているだけ。
だがヘッドセットをつけると、そこはパンプリンの「夢のオフィス」の世界だ。スティーブ・ジョブズのホログラフィックの胸像と、その近くにはテスラのモデル3も見える。宙に浮かぶスクリーンではケイティ・ペリーの「Roar」のミュージックビデオがYouTubeで流れている。
デスクの上にはバーチャルな棚が置かれてあり、これが従来のデスクトップの代わりとなるものだ。パンプリンはメールをチェックしたいと思えば、その棚にあるウェブブラウザ―のイメージをつかむ。すると空中でスクリーンが開くのだ。
パンプリンの棚には仕事とは関係ないものも含め、多くの「アイコン」が並んでいる。パチパチと音を立てて燃える炎は、雰囲気のためだけに置いてある。眼球のホログラムは医学生用に作られたものだが、パンプリンはそれがクールだから棚に並べているらしい。
「現実世界とたいして変わらないんだ」と、彼は少年のように熱く語った。「手を伸ばして物をつかんだり、リアルなオフィスにいるのと同じみたいだ」
原文はこちら(英語)。
(執筆:Selina Wang記者、翻訳:中村エマ、写真:ismagilov/iStock)
©2017 Bloomberg News
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.