ヒモからラテアート世界一になった男(前編)

2016/9/13
「The prettiest latte in the city」
シカゴのネットメディア「シカゴマガジン」は、2016年のベストティーラテに選んだ「ミリタリーラテ」をこう絶賛した。
ブルーボトルコーヒーと並び称されるサードウェーブの旗手、インテリジェンシア・コーヒーが本店を構えるシカゴは、アメリカ屈指のコーヒーのメッカだ。この地には、独立系のコーヒーショップが軒を連ねている。
その激戦区で、エスプレッソのショット、抹茶、バニラシロップ、ココアパウダーをアレンジした個性派ラテで旋風を巻き起こしているのが、澤田洋史。
コーヒー好きなら、澤田の名前を聞いたことがあるかもしれない。2008年、「フリーポア・ラテアート・ワールドチャンピオンシップ」でアジア人初、大会歴代最高得点でワールドチャンピオンに輝いた男である。
澤田洋史(さわだ・ひろし)
1969年大阪府生まれ。近畿大学卒業後、紀ノ国屋インターナショナル、雪印乳業、ディーン&デルーカジャパンで勤務。2008年フリーポア・ラテアート・ワールドチャンピオンシップで世界王者に輝いた。その後「ストリーマー・コーヒー・カンパニー」を展開し、2015年12月シカゴに「Sawada Coffee」をオープン
ミルクピッチャーでコーヒーに繊細なアートを描く世界王者は、東京や大阪で「ストリーマー・コーヒー・カンパニー」を展開し、バリスタトレーナーやカフェコンサルタントを務めるなど活躍してきた。
2015年12月には単身シカゴに乗り込み、自身の名を冠した「Sawada Coffee」をオープン。現在、5人のアメリカ人スタッフとともに、朝7時から店頭に立つ。
「アメリカ人には、『最初にシカゴに店を出すなんて、アメリカ人が銀座で寿司屋を始めるようなもんやで』といわれたんですけどね」
そういって笑う澤田の口ぶりからは、裸一貫、コーヒーの本場で戦っているという、湧き上がるような興奮が伝わってきた。
澤田はなぜ日本を離れ、挑戦を称賛する文化を持つアメリカ人からすら無謀と諭されるような、逆境を求めたのか。
その理由は、澤田の生きざまからうかがえる。

手つかずのところに獲物がいる

大阪で生まれ育った澤田は、少年時代からすでに「周りの人がやっていないこと」にあえて挑む面白さとメリットに気が付いていた。
「昔、カブトムシやクワガタをよく採りに行っていたけど、誰かが先に手を付けたクヌギには何もいないでしょ? 誰も行かなそうな藪の中に入っていくとスズメバチの巣など危険はあるけど、そういう手つかずのところに獲物がいるんです」
「テレビも、僕らの時代は土曜の夜なら『8時だョ!全員集合』を見て、9時前には寝るんですよ。でも僕は、9時から土曜ワイド劇場を見る。誰かが裸でシャワー浴びているところを刺されるみたいな、いわゆる湯けむり殺人事件ですよね」
人と違うことをすれば、見える景色も、得られるものも違ってくる。
険しい藪の先には、カブトムシとクワガタがいた。眠い目を擦りながら土曜ワイド劇場を見たら、セクシーなシーンが現れた。恐る恐る、ドキドキしながら未知の世界に手を伸ばすと、いつもそこには同級生が目にしたことがないような果実があった。
その果実を持っていると、クラスでヒーローになれた。
この小さな、しかし確かな成功体験の積み重ねが、人目を気にしない冒険心を育み、挑戦を成功させるためにはどうしたら良いのか、目の前に立ちはだかる壁をどう乗り越えるのか、自分の頭で考える力を育んだ。

映画『トップガン』に憧れて

高校生のとき、澤田は映画『トップガン』でトム・クルーズがカワサキの大型バイクで滑走路を走るシーンを見て、「俺もあのバイクに乗りたい」と強く思った。
しかし当時の大型自動二輪免許は教習所での扱いがなく、実技と筆記の一発試験で、合格率が非常に低いことで知られていた。澤田の知人にも20回試験を受けて合格できなかった人がいたほどで、あまりに難攻不落のため、免許取得をあきらめる人が多かった。
こういうシチュエーションでこそ燃える澤田は、試験を突破するために頭をひねった。
造園業をしていた親戚の叔父さんは山に詳しく、クワガタがいるクヌギや、タケノコがたくさん採れる場所を教えてくれた。
大型自動二輪の免許の試験が難しいなら、大型自動二輪についてもっと知ればいい。
「それでバイク屋にアルバイトに行ったんです。バイク屋のスタッフはみんないいバイクに乗っているし、バイクに詳しいですからね」
「あと僕の仕事は、店が買いとった中古車を洗車する係だったから、買いとったバイクを洗車場に持っていくときに750cc以上の大型をピックアップして、敷地内の洗車場までそのバイクに乗って、実技試験に出てくるスラロームや一本橋の練習をしていました。私有地は、免許がなくても問題ないんで」
アルバイト先でのリサーチと練習の成果もあって、大型自動二輪の試験は3回目でパス。当時では珍しい、スピード合格だった。

フランスチーズ鑑評騎士に

高校卒業後、近畿大学に進学した澤田は洋菓子屋や和菓子屋、うなぎ屋など自分がおいしそうだと思う店でアルバイトをしてきた。無料、もしくは格安で店の商品を食べることができるからだ。
バイクの免許もそうだが、欲しいモノを手に入れるために、まずは対象に手の届く距離に身を置くのが澤田のやり方である。
とにかく食べることが好きだった澤田は、初めての海外旅行のときにたまたま入ったアメリカのスーパーマーケットでカルチャーショックを受けた。
「お菓子や食料品のパッケージが日本と全然違って、すごくおしゃれでおいしそうに見えたんです。圧倒されました」
帰国後、東京に出て来たときに青山の紀ノ国屋に寄ると、輸入食品がずらっと並んでいた。アメリカで見た商品も多かった。
それを目にした瞬間、澤田は思った。
「ここに就職したら、全部食えるんちゃうかな」
このシンプルな動機で、輸入食品のパイオニアである紀ノ国屋に就職する。後に、乳製品やチーズのバイヤーになった。
会社員になっても、「人がやっていないことをやろう」という姿勢は変わらなかった。
チーズの生産地を訪ね、チーズに通じる人と交流を重ね、チーズの売り方を研究して、世界最年少(当時)の25歳で「フランスチーズ鑑評騎士」の称号を得たのである。
この称号はフランスチーズの情報に精通するだけでなく、普及に貢献することが求められ、簡単に得られるものではない。紀ノ国屋では当時、創業者の会長と社長に次いで3人目の快挙で、社内外で一気に存在感を高めた。

人生を変えた雪印集団食中毒事件

そうして翌年、若きチーズの専門家は、カマンベールなどナチュラルチーズを売り出し始めた雪印乳業に転職する。
青カビで熟成させるブルーチーズを売ると「商品にカビが生えているぞ」と苦情が来るような時代に、ナチュラルチーズのおいしさ、食べ方を提案し、世に広めるというハードルの高い仕事だからこそ、澤田はやる気になった。
世界最年少の「フランスチーズ鑑評騎士」として鳴り物入りで入社した澤田は、なに不自由ない環境で広報の仕事に打ち込んだ。待遇も良く、不満はなかった。
しかし、ある事件がすべてを変えた。
2000年夏、雪印の乳製品による集団食中毒事件が起きたのである。関西地方を中心に、認定者数1万4780人という戦後最大の食中毒事件は、事件と直接かかわりのなかった澤田の人生をも大きく揺るがした。
「僕は東京の四谷に勤めていたんですけど、大阪出身で、事件の起きた地域の土地勘もあるということで、被害者の自宅を1軒1軒訪ねて謝罪に行くようにいわれたんです」
(敬称略)
*続きは明日掲載します。