シアトルで学んだ、個人店がスタバに勝つ方法(中編)

2016/9/14
*前編はこちら
雪印乳業が戦後最大の集団食中毒事件を起こした2000年夏、澤田洋史は事件の中心地である大阪にいた。
大阪出身で土地勘がある。
それだけの理由で広報の職を解かれ、被害者の自宅を訪ねて相手の納得がいくまで謝罪するという新たな任務が課された。
毎朝、出社すると被害者の名前と住所がずらーっと並んだリストを渡される。それが、その日に澤田が担当するノルマだ。
付箋が貼ってあるのは、前任者と何かしらのトラブルがあった被害者を意味する。澤田は、自分のリストには付箋が多いと感じていたが、何もいわずに会社の営業車に乗り込んだ。
澤田洋史(さわだ・ひろし)
1969年大阪府生まれ。近畿大学卒業後、紀ノ国屋インターナショナル、雪印乳業、ディーン&デルーカジャパンで勤務。2008年フリーポア・ラテアート・ワールドチャンピオンシップで世界王者に輝いた。その後「ストリーマー・コーヒー・カンパニー」を展開し、2015年12月シカゴに「Sawada Coffee」をオープン
最初の日、ドアに雪印の社名が記された営業車で大阪の町を走っていたら、あちこちで罵声を浴びせられた。次の日、車体と同じ白のガムテープで雪印の社名を隠した。
どんなに気温が高くても、ネクタイを緩めることも、ジャケットを脱ぐこともできない。被害者の自宅では、正座が基本だ。暑さと緊張と足の痛みで滝のように汗が流れ落ちた。
いまだからいえることだが、被害者の自宅を訪ねたとき、ソファを勧められるとホッとした。つかの間、正座から解放されるからだ。
大阪に赴任して数カ月が経ったころ、ようやく事件は収束していったが、澤田にとっては「あれほどつらいことはない」という毎日だった。
東京で広報に復帰しても、以前と同じように仕事に臨むことができず、退職を決意した。
「周りの人には、『なんだかんだいっても雪印は一流企業だし、残ったほうがいい』といわれたんですけど、リセットしたかったんです」
シアトルでコーヒーと出会う
事件の翌年、32歳になっていた澤田は英語とビジネスを勉強する目的で、アメリカに渡った。同じ年、イチローがシアトル・マリナーズに移籍した影響で日本での露出が増えていたシアトルに好感を抱き、シアトルで留学生活を始めた。
そこで、コーヒーに目覚める。
近所のスターバックスで毎日の宿題をしていた澤田は、ある日、個人がやっているような店にも入ってみようかなと、たまたま目に入った店に足を踏み入れ、衝撃を受けた。
「Tシャツにタトゥー全開で、鼻ピアスみたいな人がコーヒーをつくっていたんですよ。当時、日本でバリスタというとグリーンのエプロンを着けているか、黒のベストを着てイタリアンバールで働いているバリスタしか知らなかったんで、『こんなんでコーヒーつくれんのかな』と思いました」
「でも、そんな外見とはギャップのある繊細な動きで、テイクアウト用のペーパーカップに注ぐだけでラテアートをサッと描いてくれて。それがまたいままで飲んだことがないぐらいすっごくおいしいカフェラテで、感激しちゃって」
その日から澤田は、カフェ・ラドロという名のその店に足しげく通うようになった。
カフェ・ラドロのような個人店に毎日通ってくる日本人は珍しかったのだろう。いつしか店のバリスタやマネジャーと打ち解けた澤田は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「なんで、ミルクを注ぐだけでアートを描けるの? どうやっているの?」
このひと言がきっかけで、カフェ・ラドロでインターンをしながらラテアートを教えてもらうようになった。最初のころは自分で牛乳を1ガロン購入し、店に持参した。
「手品に見えた」というミルクピッチャーだけで描く「フリーポア・ラテアート」は、手品と同じように練習量がものをいう。
ハウツー本もYouTubeもない時代、店の敏腕バリスタたちが簡単に描いているように見えるラテアートも、澤田にとっては難物だった。
ラテアートの存在意義
ラテアートは、はかない。
美しいラテアートは、客にカップを手渡して、口を付けるまでのほんの数秒しか存在しないものだ。
それでもバリスタが練習に練習を重ねてラテアートにこだわるのは、決して単なるサービスやファッションではない。カフェ・ラドロで働くようになって、澤田はそのことに気づいた。
「スターバックスみたいに資本力があったら、ダウンタウンのメイン通りにお店が出せるじゃないですか。個人店は、その1本、2本裏道や住宅街にお店を開くしかない。それでもお客さんに来てもらおうと思ったら、他がやってないことをやらなあかん。いわゆる生き残りをかけた差別化の策なんですよ」
「なぜなら、ラテアートの美しさとおいしさって比例するんです。完璧に抽出されたエスプレッソと、究極にきめ細かく適温でつくられたフォームミルクでしか、フリーポアのアートは完成しない。だから、『このカフェラテはおいしいですよ』という証明になるんです」
澤田によると、シアトルの個人店はペーパーカップのテイクアウトにもすべてアートを描く。
そして、フタをせずに手渡す。フタをしたら、ラテアートでおいしさの証明ができないし、香りを楽しめないからだ。
うちのラテは、どこよりもおいしい。
そのプライドが、ラテアートとなる。
逆にいえば、拙いラテアートは店の評判を落とすことにつながる。
インターンとはいえ、店頭に立って客のコーヒーをつくっていた澤田は、足を引っ張らないように必死でラテアートを学んだ。
あれ、俺のほうがうまいやん?
1年の留学を終え、帰国した澤田は友人のツテもあり、同じタイミングで日本に上陸したアメリカ発の食のセレクトショップ、ディーン&デルーカジャパンの最初の社員となった。
紀ノ国屋時代やアメリカ留学を通して世界の食のトレンドに通じ、チーズをはじめとする乳製品やコーヒーにも造詣が深い澤田は、幅広い事業を任されるようになった。
持ち前のバイタリティーで駅弁の開発まで担当するようになったが、アメリカ出張中に見たある光景が、しばらく意識していなかった「人がやっていないことをやってやろう」という気持ちを呼び覚ました。
「コーヒーの仕事もしていたので、コーヒー豆屋からコーヒーの機械、カフェに必要なシロップなどが一堂に会するシアトルのコーヒートレードショーに行ったんです。そのときにメインイベントで、フリーポアのラテアート・チャンピオンシップをやっていたんですよ。それで見物していたら、『あれ、俺のほうがうまいやん?』と。参加者もアジア人は1人もおれへんし、もし優勝したら第一人者ちゃうかなと思いました」
澤田は2002年に帰国してディーン&デルーカで働き始めた後も、せっかく身につけたラテアートの技術を忘れないように、個人的に練習を続けていた。
そのかいあって、シアトル時代よりも上達していた腕前を世界大会で試してみたい、披露したいという思いが強くなり、2005年、ディーン&デルーカで働きながら世界大会に出場する。
コーヒーに集中するためにヒモに
しかし、思い通りにはいかなかった。
「そのときの出場者が20人で、『20分の1で世界チャンピオンになれんの?』みたいな感覚で行ったんですけど、甘く見ていました。コーヒー豆、エスプレッソマシン、牛乳、すべて普段使ったことがないもので勝手が違うし、場の雰囲気にのまれるんですよ」
「観客がいるし、テレビ局のカメラもぐわーっと近づいてくるから、実力の20パーセントぐらいしか出せなかった。『俺のほうがうまいやん?』っていうのは全然違って、ズタズタでしたね」
初出場にしてアジア人初の優勝を飾る、という野望は無残に打ち砕かれたが、それで引き下がる性格ではなかった。むしろ、やる気に火が付いた。
翌年、「コーヒーに集中したい」と退職。シアトルやポートランドでコーヒーの勉強をしつつ、全米各地で開かれる小さな大会に出場し、一段落したら日本に帰国する、という行ったり来たりの生活を始めた。
コーヒーの修業をしている、といえば聞こえがいいが、澤田は当時をこう振り返る。
「結婚していたんですけど、奥さんは普通にOLとして働いていたので、当時の自分を平たくいうとヒモかな(笑)。僕が大会に行くたびに、奥さんは『どうだった?』って聞くじゃないですか」
「大会に出ると海外のバリスタと情報交換できるし、テクニックも見られるから、帰るたびに『勉強になったわー』といっていたんですよ。それを何回か繰り返していたら、奥さんに『何回勉強すんの?』といわれた記憶がありますね」
(敬称略)
*続きは明日掲載します。