【池田貴広】BMX王者、シルク・ドゥ・ソレイユ世界ツアーに抜てき

2016/6/10
世界で名を知られるようになった池田貴広は、総合力を高めるのではなく、よりいっそう武器を磨く道を選んだ。スピンのバリエーションを増やし、回転速度を上げ、成功率を高める。
その成果を世界に示すために挑んだのが、ギネス世界記録。
2011年に「ジャレイタースピン」という技で1分間に59周してギネス世界記録にその名を刻んだ池田は、ほかのスピン技でも次々とギネス世界記録を打ち立てる。
・2012年:タイムマシンスピン 1分間78回転  
・2013年:メガスピン 30秒間45回転  
・2014年:タイムマシンスピン 1分間83回転  
・2015年:ワンハンドタイムマシンスピン 30秒間45回転
「誰かに記録を超されるのは嫌」という池田は、毎回限界まで回り続け、気づけば誰も追いつけない回転速度に達していた。
活躍の場を世界に拡大
ギネス世界記録で話題を呼んだ池田は、国境を超えてパフォーマンスを求められるようになった。
その舞台は、世界最大の家電製品展示会(CES/アメリカ)、世界最大のカメラ製品展示会(photokina/ドイツ)、「ももいろクローバーZ 春の一大事 2013」とバラエティに富む。それだけ、池田のスピンは世界を引きつけたのだ。
2011年に池田にアプローチしたシルク・ドゥ・ソレイユのキャスティング担当者も、パフォーマーとしての才能を見抜いていたのだろう。
池田のBMXの世界ランキングは2014年の3位が最高で、常に誰かが上位にいたにもかかわらず、前編に記したように2015年3月、フロリダの常設ステージ『La Nouba』(ラ・ヌーバ)でシルク・ドゥ・ソレイユ唯一のBMXライダーが負傷離脱すると、その代役として池田に白羽の矢が立った。
「4月から来てほしい」という急な依頼だったが、二つ返事で快諾した池田に与えられたお題は、チームに合流するまでの3週間で、「自分なりの振り付けをしてくること」。
それまで数々のショーに出演し、構成に自信を持つ池田は、とにかく自分の武器を生かそうと得意のスピンを中心としたプログラムをがっちりとつくり込んで、フロリダに向かった。
1500分の1に向けてアピール
池田によると、通常、シルク・ドゥ・ソレイユの一員になる場合、本部のあるモントリオールで数カ月のトレーンングを積む。
しかし、今回は唯一のBMXライダーの負傷離脱という緊急事態だったため、すべてが現地で慌ただしく進んだ。
契約期間は4カ月で、ホテル暮らし。到着の翌日は、必需品の買い出しに費やし、3日目はメディカルチェックを受けた。
4日目、池田が日本で考えてきた構成を現地のディレクター陣に披露した。世界的パフォーマーたちを率いる立場にある幹部にどういう評価を下されるのか不安もあったが、杞憂に終わった。
「つくり直しになる人も結構いると聞きましたが、僕がつくったショーがほとんどそのまま採用してもらえて、ホッとしました」
5日目には練習が始まり、1500席の舞台で映えるパフォーマンスの心得をたたき込まれた。
「1500人にアピールするんじゃなくて、誰か一人を決めてその人にアピールをしろと指導されました。観客はパフォーマーのどこを見るのかというと、技だけでなく表情も見ているということで、目線をフワッとさせると表情もあいまいになる。演技の区切りの度に、誰か一人にアピールするように心がけました」
仕事も息抜きもBMX
そしてフロリダ到着から10日目、舞台での練習日数はわずか5日間の計5時間で本番を迎える。本人も驚くスピードデビューだった。
「声をかけてもらってから出演するまでに数年かかって、やっとこの舞台に立てたなという気持ちもありましたが、それまでの人生で一番緊張しました。BMXだと観客は数百人程度で、1500人の観客の前で一人だけで舞台に立つのは初めてでしたから」
「でも、出番のときは自分のパフォーマンスのことに集中していました。ショーの途中でステージの一角が数メートル持ち上がるんですけど、そこでスピンをしなきゃいけない。安全装置もなく、落ちたら確実に死ぬので、必死でした。スタッフからは『保険は利くから』と笑顔で言われていたけど(笑)」
契約は4カ月。初舞台から、怒涛(どとう)の日々が始まった。
ラ・ヌーバは火曜から土曜までの5日間、毎日2回の公演がある。池田にとって未体験のスケジュールで、緊張や不安を抱く余裕すらなく、慣れるまで「かなりきつかった」と振り返る。
「それでは、2日間の休日は何をしていたのか」とたずねて返ってきた答えに驚いた。
現地で知り合ったライダーと一緒に、近所のスーパーの駐車場でBMXをしていたというのだ。
池田にとっては、仕事も息抜きもBMX。14歳のとき、千葉の公園で初めてBMXを見て心を奪われて以来、今も変わらず、この小さな自転車に没頭しているのだろう。
7カ月間で得た財産
ようやくハードな公演スケジュールにも大きな舞台にも慣れた8月、池田は帰国した。
ところが、またすぐにシルク・ドゥ・ソレイユから連絡が来た。ケガが治って復帰したブラジル人ライダーがまたも負傷離脱したため、再登板を求められたのだ。
4カ月間、ラ・ヌーバの舞台を楽しんでいた池田は、そのオファーを快諾する。12月にはフロリダに渡り、2016年2月までの3カ月間、慣れ親しんだ舞台に立っていた。
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シルク・ドゥ・ソレイユですごした計7カ月は、池田に大きな刺激をもたらした。
「フロリダに行くまではナーバスになったけど、行っちゃえばどうにかなる。何事も一歩を踏み出すことが大事だと感じました。チームは元五輪選手や海外の有名なパフォーマーばかりなので、練習でも、舞台でも、つねにハイレベルなものを見続けていると勉強にもなるし、自分も負けたくないと思って練習していましたね」
「舞台では、最初の頃は余裕がなくてできなかった技も織り交ぜるようになりました。照明と音楽とのマッチングもあるから、本当は構成を変えちゃいけないんですが、影響がない範囲ならいいだろうって。ディレクターになにか言われるかと思ったけど、『良かった』 と褒められましたよ(笑)」
ビッグオファーも過程の一部
2度目のバックアッパーの役目を果たした池田は、日本に帰国すると日常に戻った。
アジア出身のBMXライダーとして初めてシルク・ドゥ・ソレイユの舞台に立った男は、そのキャリアを武器に、これから日本でのBMXの認知度、人気を高めようと奮い立っていた。
ところが、帰国後間もなく、シルク・ドゥ・ソレイユから3度目のメールが届く。
「新しくワールドツアーをする構想がある。まだBMXを使うかわからないけど、とりあえず曲を送るから、演技を付けて動画を送ってほしい」
相変わらずの急な依頼だが、池田は新たにショーを構成し、動画を送った。
すると、数日後に返信があった。
「2017年から始まるワールドツアーで、BMXを採用することに決まった。アーティストとしてあなたと正式に契約したい」
池田にとって、このオファーの意味は大きい。フロリダでは、あくまでバックアッパーだったので、池田が舞台に立っている間も、パンフレットやポスターに写真や名前が載っているのは負傷離脱したブラジル人だった。
今回は、池田が送った振り付けが評価されて、シルク・ドゥ・ソレイユで2つ目となるBMXの枠を勝ち取った。ツアーに参加すれば、すべての告知に池田の名前と顔が掲載されるし、池田の振り付けがツアーのオリジナルになるということで、10年以上かけて世界を巡るツアーの間、池田のアイデアが受け継がれていくのだ。
一度ワールドツアーに参加すると、ツアーが続く限り、中には10年以上も契約更新を続けるアーティストもいるそうだが、池田は最初の契約期間である1年半をまっとうしたら、ツアーから離れると決めている。
池田にとって、シルク・ドゥ・ソレイユのアーティストが最終目標ではなく、BMXプロライダーとしてさらに進化を遂げるための過程なのだ。
海外の選手に比べて運動神経、身体能力で劣る池田は、圧倒的な練習量によって得意技のスピンを磨き上げ、BMXに新たな舞台をもたらした。
その回転速度に限界は見えない。(文中敬称略)
(バナー写真:© CYCLENT inc.  文中写真:© Motoyoshi Yamanaka)